武内朗「TV SONGS ベスト1000」- ぼくらのマガジーン/Gene


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TV SONGS ベスト1000


「TVガイド」や「TV Bros.」などのテレビ誌編集長を
歴任してきた武内朗さんは、
その経歴どおり、テレビ、そして音楽が大好物。
そんな武内さんが、各年ごとのTVソング厳選20曲を
カセットテープのベストセレクション形式でご紹介。
「ライナーノート付きマイテープ」の趣きで、
最終的な総曲数はなんと1000曲超え。
懐かしいあの番組、あのテーマ曲の数々を
ぜひとも脳内で再生しながらお読みください。


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record 1980b

1. NHKニュースワイドのテーマ/坂本龍一

  坂本龍一作曲・編曲
  「NHKニュースワイド」
  (NHK総合 1980/4/7〜1988/4/2)第1期オープニングテーマ

 音楽の流行を語る際に「ブレイク」という言葉がよく使われるが、この時期のイエロー・マジック・オーケストラほど「ブレイク」という言葉にふさわしい「ブレイク」はあまりない。そのブレイクの象徴であるセカンドアルバム「ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー」が発売されたのが1979年の9月。このアルバムは最終的に日本で2枚目のミリオンセラーアルバムとなるのだが、もちろん発売時点では本人たちを含め誰もそれを予想していない。そういう意味では、翌1980年4月スタートのニュース番組のテーマ曲に坂本龍一を起用したNHKはなかなかの慧眼であった。キャッチーで知的で先進性に溢れるこのテーマ曲は、今の耳で聴いても十分カッコいい。同じ4月のタイミングで「シルクロード」もスタートしていることを考えれば、NHKの音楽戦略は完全に他を圧していた。
 もっとも穿った見方をすれば、満を持しての教授起用が当然だったと言えるほどNHKはこの「ニュースワイド」に賭けていたのだとも言える。なにしろ長年の看板番組だった「スタジオ102」を終了させてまで始めた大型ニュース番組であり、これは大きなチャレンジであった。チャレンジしたきっかけの一つは、前年1979年春にスタートした日本テレビ「ズームイン!!朝!」の成功である。「ズームイン!!〜」は朝7時スタート。「ニュースワイド」もそれに合わせた。「スタジオ102」は7時35分スタートだったから、対抗意識は当然あっただろう。
 そして最大の冒険はキャスター起用である。メインキャスターは当時40歳の森本毅郎と当時24歳の頼近美津子。女性アナウンサーがNHKニュースのメインキャスターに起用されたのはこれが初めてだった(同じタイミングで夜の「7時のニュース」のメインキャスターにも加賀美幸子アナウンサーが起用されている)。それまでニュースにおける女性アナウンサーは、はっきりアシスタントと紹介されており、頼近アナのメインキャスター起用は(入局3年目ということも含め)異例中の異例であった。彼女にかかる期待がどれだけ大きなものであったかがよくわかるわけだが、その後1年も経たないうちに頼近アナはフジテレビに引き抜かれることになる(独立ではなく移籍。彼女はフジテレビで初めて正社員として採用された女子アナウンサーとなった)。そしてまさにこの頼近アナの移籍こそが、フジテレビ快進撃の引き金を引くことになるのであった。


2. HAPPY BIRTHDAY/さだまさし

  さだまさし作詞・作曲 渡辺俊幸編曲
  「なぜか初恋・南風」(TBS系 1980/2/13〜7/16)主題歌

 さだまさしもまた1979年に大きくブレイクしたひとり。「関白宣言」「親父の一番長い日」の連続メガヒットは、ラジオのベストテン番組を困惑させた。2曲とも常識はずれに長い曲だったからである。特にライブ録音だった「親父の一番長い日」は12分半あり、長い時間を収録するためというとても真っ当な理由で12インチシングルでの発売となった(「ザ・ベストテン」の影響を受けて乱立した各テレビ局のランキング番組もその扱いに悩み、フジテレビの「ビッグ・ベストテン」はこの曲を完奏するというだけの理由で放送時間を30分拡大した)。その2連続メガヒットの後を受け発売されたシングル「道化師のソネット」のカップリングとなったのがこの曲。久世光彦が辞めた後のTBSの水曜劇場(水曜9時枠)ドラマ主題歌で、さだまさしが水曜劇場枠の主題歌を歌うのは1977年の「せい子宙太郎」(向田邦子脚本。「3年B組金八先生」前の武田鉄矢が出ていた)の主題歌「桃花源」以来2度目である。
 主演は森光子で、2番手が大場久美子。前年秋に歌手引退宣言をした大場久美子はこの頃本当によくドラマに出ていた(1979年10月17日の日本武道館がラストコンサート。当時女性ソロアーティストの単独武道館ライブは史上初。当日台風が東京を直撃してすべての交通網がストップした中、決死の思いでファンが集結した伝説のコンサートであった)。以降も2時間ドラマや舞台を中心にコンスタントに活動を続け、様々な困難を克服して、現在も芸能活動を続けている。


3. 元気です/吉田拓郎

  吉田拓郎作詞・作曲 青山徹・大村雅朗編曲
  「元気です!」(TBS系 1980/10/6〜1981/4/3)主題歌

 たった一枚の写真が運命を変える、ということが実際にある。いまや伝説となった「週刊朝日」1980年1月25日号の表紙写真もそんな一枚である。撮影を担当した篠山紀信がモデルとなった女子大生を気に入り(おそらくは)、ミノルタX−7のCMに起用したことで未来は動いた。彼女の名前は宮崎美子。表紙掲載当時熊本大学の3年生だった。木陰で人目を気にしながらジーンズを脱ぐ、というこのCMは当時の男子にとってまさに衝撃であった。このCMは彼女を一躍時の人にしただけでなく、「いまのキミはピカピカに光って」というCMソングもヒットしたし(糸井重里作詞、鈴木慶一作曲、斎藤哲夫歌唱)、商品であるミノルタX−7も大ヒットした。普及型一眼レフカメラのCMとして、あらゆる意味で非常によく出来たCMだった(確かにカメラ買いたくなるもんね)。そしてアレヨアレヨという間に彼女は同年10月クールのポーラテレビ小説「元気です!」で主演デビューを果たすことになる(このころTBS系にポーラテレビ小説というドラマ枠があった。NHKの連続テレビ小説に対抗した帯ドラマで時間枠も真裏だった。ただし午後0時40分〜1時が本放送で翌日の朝が再放送。内容も女性の一代記で、主演に新人女優を起用するのもNHKと同じスタイルであった。音無美紀子や岡江久美子、藤真利子、樋口可南子など多くの女優を輩出している)。
 そして「元気です。」と言えば吉田拓郎である。よしだたくろう(当時)のCBSソニー(当時)移籍第1弾アルバム「元気です。」は1972年7月21日に発売され、当時の大学生は全員持っていたんじゃないかとまで言われる空前のベストセラー&ロングセラーアルバムとなった。このアルバムタイトル、およびライナーの手書きのメッセージにあった「僕はやっぱり元気なのです。」の一文を、多くの若者たちが拓郎とともに共有したことによって、「元気です」という言葉はある種の屈託と決意をまとった特別な言葉になった。そういう意味では彗星の如く現れたニューフェイス・宮崎美子の、初主演作(相当暗い物語である)に対する“とまどい”を内包したいいタイトルだと思う。しかも主題歌が吉田拓郎張本人だからね。世間的にすでに大きな意味を持ち、本人も大きなこだわりを持っていただろう(おそらくは)「元気です」というタイトルの「新曲」を書き下ろすというのは相当なリスクを伴ったはずだ。しかしながら曲はなすすべなく立ちすくむ「1年目の春」から「4年目の冬」の新たな船出まで、彼女の4年間の大学生活を丁寧にトレース。運命の嵐の中を社会へと漕ぎ出した宮崎美子へ贈る拓郎からの力強いcheer-upソングであり「元気です」というタイトルの神通力を如実に示した名曲となった。まさに「元気です」は魔法の合言葉であった(ちなみにアルバムは「元気です。」、ドラマは「元気です!」、曲は「元気です」である)。


4. MY SUGAR BABE/山下達郎

  山下達郎作詞・作曲・編曲
  「警視K」(日本テレビ系 1980/10/7〜12/30)主題歌

 そして1980年には山下達郎もブレイク。まさに時代が音を立てて動いていた。この年自ら出演したmaxellカセットテープのCMソング「RIDE ON TIME」が初のトップ10ヒット。この「MY SUGAR BABE」は、そのシングルヒットの勢いを借って発売されたアルバム「RIDE ON TIME」の収録曲で、かつて自ら所属していたバンド、シュガー・ベイブへの思慕を綴った美しいバラードだが、なぜかそれが勝新太郎が脚本・監督・主演を務めた刑事ドラマの主題歌に起用されることになった。正直テーマもへったくれもない起用なのだが、まあ勝新太郎のことなので仕方がない(一説には勝の娘でこの作品にも出演している奥村真粧美が山下達郎のファンで彼のことを推薦したと言われる)。
 杉良太郎が「大捜査線」で刑事役を演じたのと同じ年に勝新太郎がこの「警視K」を作ったというのは、もちろん偶然ではないだろう。この時期の刑事ドラマブームがいかにすごかったかの証でもあるし、時代劇衰退の象徴でもある(ちなみに勝の弟子筋に当たる松平健も同時期にテレビ朝日の「走れ!熱血刑事」で初の刑事役を演じている)。そしてこの「警視K」、勝新太郎の完全ワンマン体制で作られたほぼ最後の連続テレビドラマである(勝が事実上演出、脚本、主演のすべてを兼ねたのは、テレビドラマでは「座頭市」シリーズを除けばおそらくこの作品だけである)。台本はなく、全編アドリブ&同時録音で撮られたとも言われ、とにかく逸話に事欠かない。セリフは聞こえない、話はわからない、経費はかかる、数字は悪い、現場は混乱と、打ち切り要素満載であった。そんなわけで見た人も少ないドラマだったのだが、勝の死後ソフト化され、その斬新な製作手法が注目を集めた。いわゆる勝新太郎タッチが味わえるほぼ唯一の現代物ということもあり、現在では再評価も進んでいるという(2015年にはDVDボックスも発売。セリフが聞こえにくいという声に応えて、日本語字幕付きだそうである)。


5. やさしさ紙芝居/水谷豊

  松本隆作詞 平尾昌晃作曲 石川鷹彦編曲
  「熱中時代・教師編(第2シリーズ)」
  (日本テレビ系 1980/7/5〜1981/3/28)主題歌

 ここから6曲、学園ドラマの主題歌が続く。まずは日本テレビ土曜9時いわゆるグランド劇場枠の7月クールドラマ。1978年の秋から1979年の3月にかけて金曜9時枠で放送され大きなヒットを記録、いまも日本テレビのドラマ最高視聴率記録を持っている小学校ドラマ「熱中時代」の教師編・第2シリーズである(クラス全員に役割を持たせ、学級全体を主役にした「熱中時代」の集団主役体制は、ちょうど1年後にスタートした「3年B組金八先生」にも大きな影響を与えている。卒業証書をひとりひとりにコメントしながら手渡すシーンなどは「熱中時代」の忠実な踏襲と言っていい)。その後土曜9時枠に場所を移して1979年4月から10月まで「熱中時代・刑事編」が放送され、間に「ちょっとマイウェイ」と「池中玄太80キロ(第1シリーズ)」を挟んで、80年7月に満を持しての「教師編(第2シリーズ)」がスタートする。当時の日テレドラマの充実ぶりがわかる。
 主題歌「やさしさ紙芝居」は、作詞がいままでの水谷豊の音楽活動の流れを汲んだ松本隆、作曲が「熱中時代」シリーズ音楽担当の平尾昌晃ということで、松本=平尾という異色の顔合わせとなっている(「刑事犬カール」の主題歌だった木之内みどりの「走れ風のように」も同様のロジックで松本=平尾コンビによって作られている。「熱中時代・刑事編」主題歌「カリフォルニア・コネクション」の阿木燿子=平尾昌晃のコンビも同じロジックである)。結果としてこの「やさしさ紙芝居」も「カリフォルニア・コネクション」同様平尾昌晃の力量の大きさを物語る一曲となった。80年代の平尾昌晃を代表するヒット曲のひとつである。


6. 僕らのダイアリー/H

  来生えつこ作詞 来生たかお作曲 星勝編曲
  「翔んだカップル」
  (フジテレビ系 1980/10/3〜1981/4/10)主題歌

 HOは長野県上田市出身のデュオグループで、80年6月に映画版「翔んだカップル」の挿入歌「ローレライ」でデビュー。この「僕らのダイアリー」が2枚目のシングルである。「ローレライ」はメンバー2人の作詞・作曲によるもので繊細なメロディーが印象に残る小品だったが、この「僕らのダイアリー」は来生姉弟の手になる堂々たるポップス。恋に恋する少年の切ない胸の内を歌い上げた学園ドラマの主題歌にはピッタリの佳曲だが、このドラマのムードとはちょっとかけ離れていたと言えるかもしれない。
 「翔んだカップル」というのは不思議な作品で、原作コミック・映画・テレビドラマのすべてがそれぞれ全く別の理由で高い評価を得ている。柳沢きみおによる原作コミックは「週刊少年マガジン」に連載され、のちに一大ジャンルとなる少年誌における学園ラブコメの先駆けとしてヒットした。それまで少女漫画の専売特許だった高校生が主役のラブコメディーが少年誌にも登場することになったきっかけが、この「翔んだカップル」だったのだ。にもかかわらず。物語が進むにつれ作品からは次第にコメディーの色合いが消え、シリアスな青春マンガとして別種の人気を集めていく。少年誌ラブコメのシンボル的作品のいきなりの変容、これはやはり一種のショックであった(柳沢きみおは「翔んだカップル」で1979年に第3回講談社漫画賞・少年部門を受賞しているが、第1回と第2回の少年部門受賞作家は手塚治虫と川崎のぼるである。当時この作品がいかに衝撃的だったかがわかる)。その変容を踏まえた上で1980年に公開された劇場映画は、期せずして相米慎二監督のデビュー作となり、青春映画の傑作として名高い。「3年B組金八先生」直後の鶴見辰吾と「野性の証明」以来の映画出演となる薬師丸ひろ子が主演、デビュー映画「火の鳥」の2年後で「転校生」の2年前の尾美としのりとこれが芸能界デビューとなった石原真理子が共演という、今考えても奇跡のようなキャストが揃い、あまりに瑞々しく切なくいたいけな青春群像は映画的魅力に満ち溢れていた。そしてテレビドラマ版は、それら原作や劇場映画の趣を一切踏襲することなく、真逆のベクトルで評価され歴史に名を残すことになる。
 テレビドラマ「翔んだカップル」は、フジテレビ系金曜7時スタートの30分ドラマ。最初こそコメディタッチの学園ドラマとして普通にスタートしたのだが、途中からストーリーそっちのけでパロディーやものまねが続々繰り出され、最終的にギャグ満載の一種のバラエティードラマと化した。いまの目で見ればいかにもフジテレビな作品なのだが、「楽しくなければテレビじゃない」のキャッチコピーが生まれる半年前で、「オレたちひょうきん族」も「なるほど!ザ・ワールド」もまだ始まっていないこの時期にはかなり異質であった。まさしくその後のフジテレビらしさを先取りしているドラマであったといっていいだろう。
 さらに、この番組からはのちのバラエティーに大きな影響を与えるテレビ文化が2つ生まれている。ひとつはこの番組の名物ともなったエンディングの「NG集」。本来表に出すものではないNGに初めて大々的にスポットを当てたのがこの番組で、やがてそれは「NG大賞」といった形で番組化されるに至り、NGはバラエティーコンテンツの大きな柱になっていく(それにしてもこのドラマのNGは面白かった)。そしてもうひとつが「柳沢慎吾」である。ほぼ新人に近かった柳沢慎吾は、脇役の一人でありながらまさに八面六臂の大活躍をして見せた。彼の「太陽にまねろ!」のコーナー(「太陽にほえろ!」のパロディー。柳沢慎吾が山さんに扮し、ADの一人がジーパン刑事に扮した)は、1時間後の午後8時から日本テレビで本家の「太陽にほえろ!」が放送されていたにもかかわらず(だからこそだったのかもしれないが)、ほとんどレギュラー化されていた。なにより特筆すべきなのは、彼がやってることが当時もいまも基本ほとんど変わっていないということだ。なおかつ今も堂々たる現役である。この芸風、今も昔もまさにワン・アンド・オンリー。本当にすごい。


7. 哀愁でいと(New York City Nights)/田原俊彦

  小林和子日本語詞 Andrew Joseph DiTaranto・Guy Hemric作曲
  飛澤宏元編曲
  「ただいま放課後」
  (フジテレビ系 1980/5/26〜1981/3/23)挿入歌

 80年代アイドルブームのトップランナー・田原俊彦、衝撃のデビューシングル。レイフ・ギャレットの「New York City Nights」のカバーで、当時まだ女子大生だった作詞家・小林和子が訳詞を手がけた。レイフ・ギャレットは子役上がりのアイドル歌手で、デビュー以来ビーチ・ボーイズやポール・アンカなどのカバーを中心にリリースを続けたが、1979年にオリジナルのディスコ・ソング「ダンスに夢中(I Was Made For Dancin’)」がヒット。日本でもそこそこ人気があった(「ダンスに夢中」は1979年に川崎麻世が「レッツゴーダンシング」としてカバーしている)。歌って踊るアイドルスターの誕生を目指す当時のジャニー氏が、ディスコブームに乗ることでヒットを生んだレイフ・ギャレットの方法論に惹かれたことは想像に難くない。
 「ただいま放課後」は、基本的には本田博太郎と寺泉哲章(現・寺泉憲)が演じる教師2人が主演のオーソドックスな学園ものだが、生徒役として“たのきんトリオ”の3人が出演したことで大きな人気を得た。「3年B組金八先生(第1シリーズ)」に出演していたジャニーズ事務所所属の田原俊彦、野村義男、近藤真彦をひとまとめにする動きは「金八先生」放送中からすでにあり、アイドル誌などでは“悪ガキトリオ”などと呼ばれ人気を集めていた(3人が“たのきん”というネーミングでくくられるようになるのは「金八」卒業後のことである)。1978年のフォーリーブスの解散で屋台骨を失っていた当時のジャニーズ事務所にとって“悪ガキトリオ”への注目はまさに天の恵みであり、3人を順にデビューさせていこうと目論む事務所にとって、長男・田原俊彦のデビューは絶対に失敗できないものであった。そして他の2人より3歳年上で、79年3月にすでに高校を卒業していた田原俊彦個人にとってもこのデビューは絶対に失敗できなかった。もともと歌手になるつもりだったので、「金八先生」への出演も意に沿わないものだったとのちに語っている。実際「金八」出演中の1980年1月にNHK「レッツゴーヤング」のオーディションを受け合格。「金八」卒業直後の80年4月13日からサンデーズとして番組にレギュラー出演した。サンデーズのお披露目会見ではまだデビューもしていないのに「目標は紅白」と言ってのけたという(ちなみに4月1日に「裸足の季節」でデビューした松田聖子もサンデーズの同期であった)。
 「哀愁でいと」の発売は「ただいま放課後」スタートから約1ヵ月後の6月21日。6月30日付でオリコン8位に初登場して2週目で2位、そこから5週間2位を続けた(1位はもんた&ブラザーズの「ダンシング・オールナイト」)。当時の新人のチャートアクションとしては異例のロケットスタートであり、事実上ここから世間のアイドルを見る目が変わったと言っていい。その人気はすさまじく、松田聖子や近藤真彦らとともにアイドルブームを牽引していくことになるのだが、そんなブームの起爆剤として最初にアクセルを踏みこんだのは、間違いなく田原俊彦であった。


8. 漂泊者(アウトロー)/甲斐バンド

  甲斐よしひろ作詞・作曲
  「土曜ナナハン学園危機一髪」
  (フジテレビ系 1980/4/12〜9/27)主題歌

 前年1979年の「HERO(ヒーローになる時、それは今)」「安奈」、80年に入っての「ビューティフル・エネルギー」とヒット曲を連発していた時期の甲斐バンドパワーが炸裂した人気曲。当初リリースの予定はなく、視聴者プレゼント用に作られた片面シングルへの応募が多数寄せられたため、急遽6月にシングルがリリースされることになったと言われる。
 「土曜ナナハン学園危機一髪」はタイトル通り土曜夜7時30分(ナナハン)から放送されていた84分の単発ドラマ枠(半端なようにも思えるが、2時間ドラマの先駆けと言われる「土曜ワイド劇場」も当初は84分枠で、114分に枠が広がったのは1979年4月のことである)。枠タイトルはライトだが骨太な企画も多く、脚本(那須真知子・岡本克己・富川元文・市川森一ほか)、演出(杉田成道・河合義隆・藤田明二・若松節朗ほか)、キャスト(田中邦衛・秋吉久美子・林隆三・山口百恵ほか)のすべてに渡り、歯ごたえのある豪華な顔ぶれが揃っていた。約半年と短命ではあったが、フジテレビが長時間ドラマに挑んだ歴史的な時間枠であった。実際にはタイトルに謳うほど学園寄りの作品ばかりだったわけではないが、時間帯からいっても若者をターゲットにしていたことはまちがいないし、作り手たちの多くが硬派な“10代の危機(ティーンエイジ・クライシス)” ドラマを目指していたことも十分窺える。
 当時“ティーンエイジ・クライシス”は新たな社会問題となりつつあった。それを象徴する2つの事件が、家庭内暴力の高2の息子を父が絞殺したいわゆる「開成高校生殺人事件」(1977年10月)と高1の少年が祖母を殺して飛び降り自殺したいわゆる「早稲田学院生祖母殺し事件」(1979年1月)であった。片や父による少年殺し、片や祖母を殺して少年が自殺と、事件自体のベクトルは正反対であるにもかかわらず、多くの人は2人の少年に共通項を見た。2人のありようはそれまでの非行少年の文脈とは明らかに異なっていた(両事件とも通称に学校名が使われているという異様さに、世間の驚きが現れている)。世代的に少年側にいた者にとっては正直どちらの事件もさほど不可解なものではなかったが、上の世代から見れば理解できない事件であったことは想像に難くない。この時期を境に学園ドラマのあり方が大きく変わるのは(直接的にその変革を促した「3年B組金八先生」も含めて)そうした切迫感と無関係ではなかっただろう。


9. 重いつばさ/岸田智史

  川崎洋作詞 岸田智史作曲 梅垣達志編曲
  「1年B組新八先生」(TBS系 1980/4/4〜9/26)主題歌

「1年B組新八先生」は、「3年B組金八先生(第1シリーズ)」終了直後にスタートしたTBS金曜午後8時枠の桜中学シリーズ第2弾。最初からシリーズ化が考えられていたわけではなく(おそらくは)、あくまで10月スタートの「3年B組金八先生(第2シリーズ)」までのつなぎとしての位置付けであったろう。今ではよく知られたエピソードだが、「3年B組金八先生」は当初岸田が主演に想定されていたが、「きみの朝」が想像以上の大ヒットとなり岸田のスケジュールを半年間押さえることができなかったので、同じ事務所の武田鉄矢主演となったという。岸田智史の教師役は当時の学園もののイメージとしては至極まっとうなもので、そうなっていれば「金八先生」がドラマ界に拓いた革新は起こらなかったと思う(それは別に岸田智史のせいではないが)。
 「1年B組新八先生」に関して言えば、まず中学1年の4月からスタートして9月に終わるという時間軸がいかにも不利である(中3の2学期から卒業までのダイナミズムとは比べるべくもない)。そこでドラマのクライマックスを一手に担ったのは、産休代理教員として1年B組の副担任を務めていた遥くらら扮する久美子先生との別れであった。それもどちらかといえば、生徒との別れより新八先生と久美子先生の恋のゆくえに比重が置かれていた。当時まだ現役の宝塚スターだった遥くららの可憐さは確かにドラマを支える大きな柱ではあったが、これが話の真ん中に来てしまったのでは往年の学園ドラマと同じになってしまい、金八後継の意味がない。まあ本当に仕方ないのだけれども。
 ということで概ね、傑作として名高い2つの「金八」に挟まれた不運なドラマとして記憶される「1年B組新八先生」の残した最も大きな財産は、この主題歌「重いつばさ」だったのではないかと思う。「きみの朝」「夕陽のなかで」と岡本おさみの作詞曲で連続ヒットを飛ばした岸田智史だが(ちなみに岸田の出世作「愛と喝采と」の脚本を書き、この「新八先生」も数本手がけている脚本家の岡本克己は岡本おさみの兄である)、この「重いつばさ」は、50年代から活発に活動を続け茨木のり子や谷川俊太郎らと同人誌を立ち上げたりもしていた詩人・川崎洋が詞を手がけている。肉体を置き去りにして心が早るローティーンの感覚を丁寧になぞる視線は、実に腑に落ち、かつ優しさに溢れている。岸田智史の純文学的メロディーとも相まって、ドラマの中途半端さとは裏腹に十代の切実な心情に寄り添う主題歌になっていた。


10. 贈る言葉/海援隊

   武田鉄矢作詞 千葉和臣作曲 惣領泰則編曲
   「3年B組金八先生」
  (TBS系 1979/10/26〜1980/3/28)主題歌

 ここでは通常その該当年に始まった番組の主題歌を紹介している。この曲は1979年の10月に始まり1980年3月に終了した番組の主題歌なので、本来なら1979年のところで紹介するべきなのだが例外的に1980年で取り上げることにした。なぜならこの曲は番組終了時(=卒業)の時期に最も注目され、ヒットもし、その後も“卒業”の文脈で語られることが多い曲だったからである。
 「3年B組金八先生」は、学園ドラマのみならずテレビドラマ全体の歴史に残るエポックメイキングな作品であった。こと学園ドラマに関しては「金八」以前と以後ではそのあり方が全く違ったものになった(このSide-Bで取り上げた学園ドラマ主題歌の解説すべてに「3年B組金八先生」という文言が登場するのも、その証拠のひとつである)。だが柳井満プロデューサーはじめスタッフサイドに最初からそうした野心があったわけではない。何をやってもうまくいかない不毛の金曜8時(=金8)枠をとりあえず埋めろということだけがミッションだった。むしろ制作側が具体的な方針を持っていなかった、その消極性こそが功を奏したのである。
 脚本を手がけた小山内美江子は当時49歳(向田邦子と同学年)。60年代から活躍するベテラン脚本家で「キイハンター」「アイフル大作戦」などのスタッフライターを長く務めた。「加奈子」「おゆき」といったポーラテレビ小説枠で名を上げ(両作とも柳井満プロデューサーとのコンビ作)、「金八」直前の1979年4〜9月期にはついに本家・NHK朝の連続テレビ小説「マー姉ちゃん」を手がけた(この時点ではこれが代表作だったろう)。9月まで朝ドラを書いている人に秋からの連続ドラマを書かせようというのが土台無茶なのだが、粘る柳井プロデューサーに小山内美江子は中学3年生のドラマなら書けると言ったそうだ。女手一つで育てた彼女の長男(のちの俳優・利重剛)が3月まで中学生だったことが理由だったという。当時中学校を舞台にした学園ドラマはほとんどなかったので、高校入試や内申書、校内暴力などのテーマはほとんど手付かずのまま残されており、この時点で彼女にはある程度勝算があったと思われる。 そして中でも制作サイドが切り札としていたであろうテーマが「十五歳の母」のエピソードである。極端に言えば、これがあったからこのドラマは歴史に残るものになったのだとも言える(のちのたのきんトリオはじめオーディションで選ばれた無名の生徒役が多い中、杉田かおると鶴見辰吾という実績のある二人がこのエピソードの当事者を演じたのはもちろん偶然ではない)。「十五歳の母」の重要性は、単に中学生の妊娠というテーマのセンセーショナリティーに堕ちることなく、当事者以外の生徒、家族、また向き合う金八ほか大人たちの戸惑い=未熟さもひっくるめて等分に描き切ったところにある。杉田かおる演じる雪乃の出産、高校入試の合否、(東大受験に失敗した)雪乃の兄の自殺、と畳みかける終盤はまさしく息もつかせない(赤ちゃんを抱く牟田悌三が泣かせる)。性の問題も、愛の問題も、家族の問題も、受験の問題も、人生においてはすべて等しく同時に降りそそぐ。「金八」シリーズ(少なくとも初期の)を輝かせていたのは脚本の小山内美江子ほか制作サイドのそういう真摯な視点であった。
 そしてこのシリーズによって最も人生が変わったのはもちろん武田鉄矢その人であろう。武田鉄矢が演じていなければ「金八」はこれほど支持されていなかったろう。当時の印象としては彼の主演はさほど意外なことではなかったが(「幸福の黄色いハンカチ」の好演があったので)、校長の赤木春恵ほか、倍賞美津子、財津一郎、上條恒彦、吉行和子と、彼を取り巻く共演陣が必要以上に贅沢なのは、局側の不安の表れだったのかもしれない。そしてその贅沢さは想像以上にドラマに深みを与えている。うまくいく時はすべていいほうに転がる。そして主題歌「贈る言葉」も卒業ソングとして長く愛唱され、歌謡史に残る国民的なスタンダードソングとなった。長い目で見れば、歌手としての代表作を得たことの方が武田鉄矢にとって大きな財産となったかもしれない。



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レコードイラスト:GATAG|フリー素材集 壱CC BY-SA 3.0

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