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ーー

もう少しだけ昔のことを聞かせてください。
2000年にはついに
ブラジルまで行っちゃったんでしたよね。
このブラジル行きが最初の自主制作アルバムに
つながっているようですが、
最初から音楽的な目的があっての旅だったんですか?

吉田

全然(笑)。
そのころ留学で仙台に来ていたブラジル人の夫婦に
ポルトガル語を習ってたんですね。
その二人が一時帰国するときに
「一緒に来る?」と誘ってくれて。
向こうでは一緒に行動できないけど、
それでもよければって。
滅多にない機会だしと、くっついて行っただけなんです。

ーー

じゃあもう、まるっきりの観光旅行。

吉田

です。
ブラジル音楽はものすごく好きでも、
ブラジルという国のことは全然知らなかったから。
でも、ブラジルって遠いし、
正直なところちょっと怖くもあって。
だから、イヤになったら三日で帰ってこようと
決めて行ったんですけど、
気がつけば半年もいちゃったんですよねぇ(笑)。

ーー

とくに目的も持たずに行って半年って、
けっこう長いですよね。

吉田

実際に行ってみると、
いろいろな出会いがあったんですよ。
それで、最初はポルトガル語を教えてくれていた
友人のお姉さんの家にいたのが、
いろいろ知り合うから
いろいろなひとの家を転々とするようになって。
政治家の家だとか、
ブラジル手芸のお店の家にも居候しました。
で、最後にお世話になったのがミュージシャンの家なの。
ミュージシャンだから最後になったのかもしれないけど。
友だちと楽器街をぶらぶらしていたときに知り合った、
パーカッションを教えている
タタさんというおじいちゃんのミュージシャン。
これでやっと音楽ができるかも!って(笑)。

ーー

それまでは音楽とはまったく縁がなかったんですか?

吉田

ライブには行ってましたけど、
自分が演るほうにはならなかった。
もともと「ブラジルを見てみたい」という
気持ちだけで行ってたから、
演ろうともあまり思わなかったし。
もちろんCDはいっぱい買って、
行く先々の家にギターがあったので
ひとりでギターを弾いたりはしてたんですけどね。
それがタタさんに出会ったことで
急に音楽の割合が増えて(笑)。
知り合ってからわかったんですけど、
タタさんはカリオカ(リオデジャネイロ出身者)で、
わたしが大好きなサンバカンソンの歌手のバックで
演奏していたミュージシャンだったんです。
彼の家の壁にその歌手のポスターが貼られてて、
「若いときに一緒に演ったんだよ」って。
うれしかったですねぇ。
それにタタさんはものすごく優しくて、
静かなひとだったの。
彼はドラムなんだけど、音がものすごく小さい(笑)。
もちろん大きな音でも演奏できるけど、
わたしがマイクを使わずにギターを弾いて歌うと、
それに合わせて小さな音で叩いてくれるのね。
それがもう繊細で美しい! 
田庫さんと同じように
わたしのやることを尊重してくれて。
もう、すっごくうれしかったですね。

ーー

タタさんとはどこかで一緒に演奏したんですか?

吉田

彼はサンパウロの観光ホテルのラウンジで
毎日バンドで演奏してたので、
時々行って歌わせてもらいました。
それから、わたしが帰る間際に
「記念に録音しよう」となって、
一緒に近所のスタジオにも入ったり。
半年もいたから、
向こうでけっこうな数の曲を覚えたんですね。
せっかくだからそれを録音しておこうと、
ショーロ・ギターを弾く近所のおにいちゃんも呼んで
わたしが弾けない難しい曲を弾いてもらって(笑)。

ーー

それが最初のアルバム
『愛しいひと bem querer』になったわけですね。 

吉田

そうなんですけど、そういう経緯なので、
最初からアルバムを作るために
録音したわけじゃないんです。
日本に帰ってまわりのひとたちに
「CDにすれば?」とすすめられて、
じゃあやっちゃおうか!と、勢いで作っただけ。
これを機に音楽活動をやっていこう、というような
気持ちもとくになくて。

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photo by tobotobosan

ーー

えっと、ブラジルに半年間行っていたということは、
仕事は辞めていたんですよね?

吉田

ですね。
田庫さんと一緒に定期的にライブに出るようになって、
OLはすぐに辞めちゃいました。

ーー

それでも「音楽で食っていこう」というような気持ちは
なかったですか?

吉田

そういう意味では、
そのときはもう音楽でごはんを食べてたんですよ。
田庫さんと一緒に定期的にライブに出ているうちに
やる場所が増えてきちゃって。
とはいえ、私は両親と暮らしていたから
あまりお金がかからなかったんですけどね。
楽しい!うれしい!だけでやっていられたのは
両親のおかげも大きいと思います。
とにかくわたしは、田庫さんというミュージシャンと
一緒に演奏できることが、
楽しくて仕方なかったんですよねぇ。
声が小さいという音響的な問題は、
田庫さんが音響素材を揃え、
オペレーションも彼がやることで
全部取り除いてくれたし、
わたしも歌だけじゃなくギターも弾き始めたから、
好きなことを好きなようにやれるようになって。
それがうれしくて楽しくて、
その気持ちだけでやっていたんです。

ーー

そのモチベーションというか、気持ちや姿勢には
この20年近くで変化がありました?

吉田

うーん、あまり変わらないかなぁ・・・。
今も自分をあまり“歌手”とは思っていないし。
職業でいえばやっぱり歌手なんでしょうけど、
歌はうたっていても、それ以外の自分もすごく大きい。
27歳で転機があって、
音楽という夢中になれるものを見つけたけど、
目標みたいなものは今でもないんです。
歌い始めたのが30歳を過ぎてたから、
そこから一旗揚げてやろうというのもなかったし、
売れたいというのもあまりない。
楽しいからやってる。
もともとそういうたちなんでしょうね。

ーー

実は今日、慶子さんのCDを
いろいろ持ってきてまして・・・。

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吉田

わぁーーー、すごいすごい! うれしいなぁ。

ーー

昨年リリースの『カエターノと私』は、
コアポートの高木洋司さんから
お誘いがあったのでしたよね。

吉田

最初に「カエターノ・ヴェローゾでやりましょう」と
言ってくれたのは高木さんですね。
『コモ・ア・プランタ~ひそやかなボサノヴァ』と、
『パレードのあとで~ナラ・レオンを歌う』と、
『カエターノと私』は、高木さん。
高木さん、以前オーマガトキにいたんですけど、
わたし、オーマガトキが大好きだったんです。
当時はピエール・バルーをはじめ
素晴らしいアルバムがたくさんあって、
オーマガトキは憧れのレーベルだったの。
だから高木さんに声をかけてもらったときは、
もう天にも昇るような気持ち。
ほんとうにうれしかったんですよ。

ーー

『サンバ・カンソン』『soneto ソネット』は
自主制作ですね。
これはどんな気持ちから録音しようと?

吉田

『サンバ・カンソン』のときは、
黒木さん(ピアノの黒木千波留氏)に出会ったのが
きっかけですね。
それまでは自分でギターを弾いて歌うスタイルで
やっていたわけですけど、
黒木さんのピアノで歌ったときに、
「彼のピアノで古いサンバカンソンを歌ってみたいな、
それでアルバムを作れたらいいな」って
ぼんやり思ったんです。
そんなふうに思ったことはあまりなかったから、
少しずつかたちにし始めて。

ーー

つまりこの2枚は慶子さん自身から
創作欲求が生まれて作ったものなんですね?

吉田

この2作についてはそうですね。
『サンバ・カンソン』は
自分でも納得できる作品になったので、
やり残したものというか、
「あれもあれもあったのに・・・」という曲を
すぐにでもまた録音したかったんです。
それで作ったのが『soneto ソネット』。
結局、思ったより時間がかかってしまって、
2011年の地震のあとに録音したんですけど。
黒木さんの家と小さなスタジオで録って、
録音はいつもの国重さん
(サウンド・エンジニアの国重哲也氏)、
ジャケットのレイアウトは夫がやってくれて・・・。
4人だけで作った、ほんとうに手作りのアルバムです。
地味だけど大好き。

ーー

最近はどうですか? 
次はこんな曲を録音したいという欲求は?

吉田

『カエターノと私』を作ったばかりですから。
これも1年くらいかかったんですよ。
プロデューサーの高木さんとうんと考えて。
作った満足感があるから、
今はなにかやりたいというのはないですね。

<次回に続きます>


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