ナターシャ・グジー

歌手・バンドゥーラ奏者。
ウクライナ出身。6歳の時、1986年4月26日未明に父親が勤務していた
チェルノブイリ原発で爆発事故が発生し、原発からわずか3.5キロで被曝した。
その後、避難生活で各地を転々とし、キエフ市に移住する。
ウクライナの民族楽器バンドゥーラの音色に魅せられ、
8歳の頃より音楽学校で専門課程に学ぶ。
1996年、98年に救援団体の招きで民族音楽団のメンバーとして2度来日し、
全国で救援公演を行う。
2000年より日本語学校で学びながら日本での本格的な音楽活動を開始。
2005年7月、ウクライナ大統領訪日の際、首相官邸での夕食会に招待され演奏を披露。
美しく透明な水晶の歌声と哀愁を帯びたバンドゥーラの可憐な響きは
日本で多くの人々を魅了している。
コンサート、ライブ活動に加え、
音楽教室、学校での国際理解教室やテレビ・ラジオなど多方面で活躍しており、
その活動は教科書にも取り上げられている。

Portrait by Ryuichi Hirokawa

オフィシャルサイト






























「誰かのために生きる。それが私の生きる支え」

───ナターシャ・グジー 

2012年2月25日インタビュー:
津田大介の「メディアの現場」2012.8.8.+8.15.(vol.42)掲載より──


私がナターシャ・グジーさんを知ったのは、2011年の東日本大震災の直後。
事故を起こした福島 第一原子力発電所で、
いま何が起きているのかとザワザワした思いで
インターネットにかじりついていた際、
ジブリ映画『千と千尋の神隠し』の主題歌である『いつも何度でも』を
流暢な日本語で歌い上げるナターシャさんに出会いました。
そして、彼女が日本で活動するウクライナ出身の歌手であると同時に、
1986年に起きたチェルノブイリ原子力発電所の事故の悲惨さを
自らの体験として語り継ぐことのできる貴重な存在であることを知ったのです。
彼女は歌手ですから、おそらく言葉で話すよりも歌うことのほうが
ずっと得意だと思います。
彼女が味わってきた悲しみや痛みも、言葉を費やすより、
歌を通じてのほうが伝わるに違いありません。
それでも私はナターシャさんにインタビューを申し込みました。
それはチェルノブイリのみならず、この日本で起きたこと、
これから起きつつあることについて彼女がどう感じているのか
知りたかったからです。
「チェルノブイリを忘れないでほしい」
「福島の子どもたちを守ってほしい」と語る彼女の言葉と深い思いに
耳を傾けていただければと思います。



────

ナターシャさんは、
お父さんがチェルノブイリの原子力発電所で
働き始めたのを機に、
幼い頃にプリピャチ郊外に移り住んだんですよね。
子どものナターシャさんから見て、
プリピャチはどんなところでしたか。

ナターシャ

プリピャチはチェルノブイリから3.5kmしか離れていない、
原発で働く人たちと、
その家族のために新しく作られた町なんです。
だから町自体が新しかったし、
当時、原発で働いていた人たちも若い家族ばかりだったので、
幼稚園や学校、図書館、映画館といった暮らしに必要なものが
なんでも揃っていました。
建物も新しくて、きれいで、お花もたくさん咲いていて。
誰もがその町に住みたいと思えるような環境が
整えられていたんだと思います。
私たち家族は町の中心からちょっと離れたところで
暮らしていたので、
家のまわりは、町のほうとはまた少し違う感じでした。
高い建物がなく、小さな古い一軒家がたくさん並んでいて、
畑があったり、すぐそばには森もあったり。
私たちは古い一軒家のお部屋を借りて、
家族みんなで暮らしていたんです。

────

そんな穏やかな生活のなかで、
1986年4月26日の深夜1時23分、
チェルノブイリ原発の4号炉が爆発したわけですね。

ナターシャ

家族は原発の方向で火が燃えているのを
家の外に出て見ていたようです。
ただ、私自身は見ていませんし、
音がしたのかどうかもおぼえていないんです。

────

朝起きて、ご両親の様子がおかしかったなどの
記憶はありますか。

ナターシャ

そういうことも記憶になくて。
ただ、その日はキエフからプリピャチに
人形劇が来るということで、
もともとそれを観に行く予定だったんです。
とても楽しみにしていたんですが、
急に母から「今日は外に出ないほうがいい」と言われて
人形劇を観に行けなくなったことがすごく悲しくて、
泣いていた記憶があります。

────

旧ソ連政府による事故の公式発表は
翌27日の午後だったようですが、
お母さんは事故のことを何かで知った上で、
「外に出ないほうが」と言ったんでしょうか。

ナターシャ

知ったというよりも、
夜中に原発の方向で火が上がっているのを見たり、
ほかにも火事を見た人はたくさんいたので、
やっぱり「事故が起きたんじゃないか、
念のために外には出ないほうがいいんじゃないか」
という噂が広まっていたんだと思います。
ただ、その噂をまったく知らず、
普通に外に出ている人もいて。
というのも26日は土曜日で、とても晴れていたので、
仕事がお休みだからと外で遊んでいた人もたくさんいたんです。
政府からは何も知らされていませんでしたから、
いつもどおりに生活をしていた人たちはとても多かった。
この映像は日本でもよく流れるので
知っている人もいるかもしれませんが、
警察の人たちがマスクをつけている隣で、
子どもたちが何も知らずに
普通に土で遊んだりしていたんです。

────

ナターシャさんたちは政府の公式発表を
どんな形で知ったんですか。

ナターシャ

ラジオや、町で流れるアナウンスで知りました。

────

当初は「3日間だけ退避を」ということでしたよね。

ナターシャ

そういう内容のアナウンスが流れて、
プリピャチ市内の団地のいたるところに避難用のバスが
2000台くらい用意されました。
私たち家族は家がたまたま鉄道の駅に近かったので、
自分たちの足で避難することになって。
妹のおむつや着替えだけ持って、
私たちは白いワンピースを着ていたのをおぼえてます。

────

もちろん、ご両親も一緒だったんですよね?

ナターシャ

母は一緒でしたけど、父は一緒ではなかったです。
原発で緊急事態が起きた場合、
すぐに呼ばれる人たちと、そうじゃない人たちがいるんですね。
私の父はすぐには呼ばれず、
事故が起きた26日は私たちと一緒にいた気がするんですけど、
避難をすることが決まると職場に戻って、
自分たちがどこに避難するのかを
上司の人たちに報告していたようです。

────

では、避難時はお母さんをはじめ女性ばかりだったんですね。
お母さんのご様子、おぼえていますか。

ナターシャ

とにかく必死だったと思います。
姉たちもまだ小さかったし、
妹はちょうど1カ月前に生まれたばかり。
家族を守らなきゃいけないという思いで
いっぱいいっぱいでしたね。

────

鉄道の駅はどんな様子でしたか。

ナターシャ

駅に行くと私たちと同じような人がたくさんいて、
なかなか切符が買えなかったのをおぼえてます。
子どもたちが泣きながら
頭が痛いとか喉が痛いと言っているのを聞きましたし、
私自身も頭痛がしたり、
喉がとてもイガイガする感じがあって・・・・・・。
年配の人たちはずっと暮らしてきた場所を
離れたくないという気持ちが強かったようで、
口々にそういったことを言い合いながら
ずっと泣いていたように思います。

────

「もう戻れないんじゃないか」という不安を
感じていた人も少なくなかったのではと思うんですが。

ナターシャ

そうですね。
「3日間だけ」というのを信じた人もいたかもしれませんけど、
それでもやはり原発で働いていた人や、その家族は
ある程度の覚悟を持っていたというか、
万が一のことが起きた時は、
そう簡単には元に戻れないということはわかっていたはず。
だから不安だったり、とてもつらい気持ちを抱きながら
町を離れたんだと思います。
私もまだ6歳でしたけど、
駅でみんなのパニック状態を見て、とても不安になりました。
よくおぼえているのが、列車に乗って、
ああ、いよいよこの町を離れるんだな・・・・・・というのを
はっきりと理解し始めた時に、
自分はもう二度とここには戻れないんじゃないかと強く感じて、
ものすごく涙がこぼれてきたんです。
ずーっと泣きながら、窓から流れて消えていく
ふるさとの景色を見ていて・・・・・・。
この景色を見るのは、これがきっと最後なんだと思いましたね。

────

6歳でも、深刻な気配をそこまで感じ取っていたんですね。

ナターシャ

口に出さなくても、言葉では何も言わなくても、
子どもが感じていることは
もしかしたら大人より多いのかもしれません。
「まだ幼いからわからないだろう」と子ども扱いをせずに、
ひとりの人間として大事にしなきゃいけない・・・・・・。
今、福島の子どもたちについても、そう思います。
私の家族の場合は住むところも着るものもすべてを失って、
ゼロから生活を始めなくてはならなかったんですね。
両親は精神的にはもちろん経済的にもすごく苦しくて、
そんな姿を見ていると、
子どもながらにこれ以上親に負担をかけたくないという
気持ちが働いて、
自分の小さな悩み・・・・・・本当は小さくなんてないんですけど、
そういうことは言わないでおこうって、
どんどん悩みを抱え込んでいきました。
きっと福島の子どもたちも
同じような思いをしているんじゃないかと思うんです。
もちろん健康面のことは一番心配ですが、
心のケアも絶対に忘れないでほしいと思います。

誰もが「次は自分が病気になるのかも」と
怯えていた

────

プリピャチを離れてからのお話を聞かせてください。

ナターシャ

プリピャチから列車に乗って、
まずはウクライナの南西部に住んでいる
母方の祖母のところに行きました。
1000kmまでは離れていないと思うんですけど、
急行などではなく普通の列車だったので、
夕方に乗って、夜中に乗り換えたりして、
着いたのは翌日の昼前だったと思います。
でも、祖母の家にはそれほど長く居ることができなかったので、
隣町に移り、
大学の寮で部屋を借りて生活を始めることになったんです。
ただ、男子寮と女子寮に分かれていたので、
父は男子寮、母と私たち子どもは女子寮で暮らし、
私はその年の9月に、その町の小学校に入学しました。

────

でも2カ月後の11月には、
そこからまたウクライナの首都であるキエフに
移ったんですよね。

ナターシャ

原発の事故で被災した人たちのための団地が
キエフに造られたんです。
そして父は事故処理のあとも原発で働き続けていました。
1号炉から3号炉までは動いてましたから。
その団地には私たちのほかにも、
父親が原発で働いている家族が
たくさん住むことになったんですね。
ただ、住むところが与えられたとはいっても
私たち家族は子どもが多かったこともあって、
両親はとても苦労したと思います。
キエフに来た時に持ってきたのは
少しの食料品と毛布くらいでしたから、
家具や洋服などを買わなくてはならなくて、
文字どおりゼロからの生活だった。
避難してきた者同士で助け合いながら暮らしていましたけど、
それでも苦労は尽きなかっただろうと思います。

────

ナターシャさんご自身はいかがでしたか。
すでにご存じと思いますが、
今、福島から避難している子どもたちが
避難先で差別に遭うといったことも起きていると聞きます。
ナターシャさんはキエフの小学校に転入して、
被曝差別のようなものに遭うことはありませんでしたか。

ナターシャ

やっぱりプリピャチから来た子たちと
キエフの子たちがはっきりと2つに分かれてしまって、
なかなか友だちを作れなかったりはしましたね。
それは私だけのことではなく、みんなもそうでしたけど。
たとえばプリピャチの子とキエフの子では、
給食の中身に違いがあったんです。
プリピャチから避難してきた子どもたちは給食費が無料で、
栄養をつけなくちゃいけないということで
果物がついていたりしたんですね。
でもキエフの子たちの給食は有料で、内容も違う。
キエフの子どもにしてみれば、
自分も同じ子どもなのに
なぜ違う扱いをされているのかという思いが
あったでしょうから、
プリピャチの子どもだけでなくキエフの子どもにとっても、
そういうことは心に傷になったと思います。
また同級生の間では「放射能がうつる」というような
差別的な問題も起きました。
高校生にもなるとかなり気にならなくなりましたけど、
みんなが大人になっていくにつれて、
今度は恋人だとか結婚だとかの問題が出てきて。
相手はどういう人なのか、
プリピャチの子なのかキエフの子なのかというのは
みんな気にしていましたね。
実際、結婚しようという話が出ると、
相手がプリピャチ出身だと結婚させないという親もいて。
放射能の影響は次の世代に出る可能性も少なくないので
気になってしまうんです。
私のまわりのプリピャチ出身の女の子はみんな、
いつか結婚をすることになった時に
どういう目で見られるんだろう、
拒否されたりするんだろうかと心配していましたね。
今ではそういった見方はかなりなくなったようですけど、
私がいた頃は、そういう話はよく聞きました。

────

偏見や誤解による差別は言語道断として、
放射能の身体への影響については決して風評ではなく
現実の問題です。
チェルノブイリ事故についても、
すぐに何らかの症状を呈した人、
数年を経てから、がんなど様々な病気を発症した人など
原発の事故由来と思われる臨床報告も多くなされています。
ナターシャさんのまわりでも
健康被害が起きていたと聞いていますが、
どんな状況だったんでしょうか。

ナターシャ

私の友だちだったり、そのまた友だちだったり、
親戚だったり・・・・・・。
年齢を問わず、まわりの友人知人のほとんどが
家族の誰かを亡くしたり、
誰かが病気で倒れたりしていました。
キエフに来て3年くらい経った頃、
隣のクラスの男の子が甲状腺がんで亡くなるという
悲しい出来事もありましたし、
病気と闘っている人が結婚をして、
生まれてきた我が子もまた病気を抱えているということも
決して少なくないんです。

────

ナターシャさんのお父さんも
事故後13年にわたってチェルノブイリで働いた後に
体調を崩されたとうかがっています。
また、お父さんの同僚にも若くして亡くなった方が
大勢いるそうですね。
そういう方々の命は
「チェルノブイリ原発事故の犠牲者」には
含まれていないのですよね。

ナターシャ

当時、原発で働いていた人たちには
いろいろな年代の人がいたんですけど、
私の父のように当時30代だった人が
しばらくしてから発病して、
次々に亡くなっています。
その病気が原発事故のせいだろうということは
本人たちはわかっているんです。
でも、ウクライナは保険制度が
日本のようにしっかりしていないので、
病気の治療にとてもお金がかかるんですね。
だから体調が悪くても我慢をして、
病院にもかからず、
そのまま亡くなっていくことも多い。
病院にかかったとしても、
経済的な問題から離婚をしてしまう夫婦、
壊れてしまう家族もたくさんありました。
そしてもちろん事故から20年以上が過ぎて亡くなった彼らは
チェルノブイリ事故による犠牲者には含まれませんし、
補償もないんです。

チェルノブイリでの体験を語り継ぐ理由

────

その後の暮らしのなかで大変だったことを挙げれば
きりがないと思いますが、
原発事故で被災された方々にとって、
なかでもつらかったのはどんなことですか。

ナターシャ

経済的に生活が成り立つようになっても、
健康への不安はやっぱり消えませんでした。
まわりの人が病気になったり亡くなったりすると、
やっぱり誰もが「自分は大丈夫なのか」と不安になります。
そして、それは今も続いています。
10年、20年経ってから病気になる人もたくさんいるので、
仕事に就いて、経済的には不自由なく暮らせるようになっても、
この不安だけはずっと消えないですね。

────

そんななかでナターシャさんが心のより所としたのが、
ウクライナの民族楽器バンドゥーラであり、
音楽なんですね。

ナターシャ

私の家族はもともと音楽が大好きで、
親も歌をうたっていて、
姉や叔母もバンドゥーラを弾いていたんです。
バンドゥーラというのは日本でいうお琴みたいな存在で、
家にバンドゥーラがあったり
まわりで誰かが弾いていたりしないかぎり、
自分から積極的に習おうとはなかなか思わないんですね。
一般的にはちょっと遠い存在。
でも私にとってはごく自然なものだったので、
小さな頃から親しんでいました。
事故の後、親は私にダンスやフェンシング、音楽など、
いろいろなことを勧めたんです。
少しでも気持ちが和らぐよう、
何か夢中になることをさせたかったのだと思います。
そのなかで一番楽しくて、
自分に合っているんじゃないかと思えたのが音楽。
歌をうたったりバンドゥーラを弾いたりしていると、
悲しいことや嫌なことから
ひととき離れていられることがわかったんです。

────

プリピャチの子どもたちを中心に作られた
「チェルボナ・カリーナ」(赤いカリーナ)という、
子ども音楽民族音楽団にも参加されたんですよね。

ナターシャ

そのグループの先生もプリピャチで音楽を教えていた方で、
みんなで踊ったり歌ったりすることによって
元気になりましょう、
薬ではなく音楽で心を癒しましょうという思いで
作られたグループでした。

────

その音楽団で来日したのが、日本との縁の始まり。

ナターシャ

フォト・ジャーナリストの広河隆一さんが中心になって
私たちを呼んでくれていて、
3回目に来日した時に、
「ひとりでもやってみないか」と言ってくださったんです。
私はちょうど高校を卒業したばかりだったんですけど、
父が病気で倒れてしまったので
音楽の道を諦めようと思っていたんですね。
でも、広河さんが「もったいない」と言ってくださって、
日本で3カ月間、
チェルノブイリの救援コンサートをやりました。
もう音楽はできないと思っていたのですごく嬉しくて、
日本のことも大好きになったし、
できればもう少し日本にいたいと思うようになったんですね。
そうして日本での音楽活動が始まりました。

────

その頃からすでに、
コンサートではチェルノブイリ事故での体験を
話していたんですか。

ナターシャ

話していました。
でも、当時は通訳さんを通していたので
なかなか言いたいことが伝わらなかったんです。
それで、できれば自分が体験したことを
自分の言葉で伝えたいという思いが強くなり、
一生懸命に日本語学校で勉強しました。

────

「体験したことを伝えたい」という思いの背景を
もう少し教えていただけますか。

ナターシャ

原発の事故というのは、いったん起きてしまったら
そう簡単には取り返しがつきません。
そのことを私は身をもって知ったし、
私が経験したことがいかに怖ろしいことなのかも知っています。
だからこそ私たちが経験したことを
ほかの誰にも経験してほしくないし、
私が話すことによってみなさんが何かを感じたり
考えたりするきっかけになればと思っているんです。
私はいつも「チェルノブイリの事故を忘れないでほしい」と
言うんですね。
それは忘れないことによって、
あるいは知らなかった人が知ることによって、
同じことが起きるのを防げるのではと思うからなんです。
結果としては、
残念ながら福島で同じことが起きてしまいましたけど、
それでも私はこれからも伝え続けていくつもりですし、
私を通してみなさんが原発というものについて
考えてくれたらと思います。

────

ナターシャさんが実際に体験されたことを語ったり
音楽を通じてより深い思いを届けることは、
原発の賛否にとどまらず、
「生きるとはどういうことなのか」という
根源的な問題についても考えるきっかけになると思います。
生きることや命というものの大切さを
イデオロギーを超えたところでじっくり考える機会を
ナターシャさんは提供してくれている・・・・・・
私はそんなふうに感じます。

子どもたちを守ってほしい

────

今、福島の原発事故によるさまざまな問題が浮上している中で
福島や近郊の親御さんたちが懸念しているのが、
子どもたちの健康です。
今回の事故によってどのくらいの健康被害が予測されるのか
多くの専門家が見解を述べていますが、
現時点ではっきりとわかっているのはたったひとつ、
「どうなるかわからない」ということのようです。
福島から退避した、しないに関わらず、
この先、我が子の健康に不安を抱きながら
暮らしていかねばならない親御さんたちに
ナタ ーシャさんが声をかけるとしたら、
どんな言葉でしょうか。

ナターシャ

(しばらく考え込んで)あなたの子どもは大丈夫ですよとか、
ちょっと不安ですねというようなことは、
やはり誰にもわからないことだと思うんです。
ただ、不安であっても生きていかなければならないというのは、
プリピャチの人たちがそうだったように、
福島の人たちも同じだと思います。
そんななかで私が言えるのは、
不安を抱えていた子ども時代、
音楽が私の心の支えになったし、
今も支えになっているということです。
もちろん家族の支えもありましたし、
音楽によってすべての不安が消えるわけではありません。
ただ、心の支えに出会うということは、
大人だけではなく子どもにも
とても大切なことだと思うんですね。
スポーツでも美術でも、楽しいと思えるもの、
夢中になれるものに出会うことによって心が軽くなる。
子どもたちが その「何か」に出会えるように、
ご両親や大人の私たちがサポートをしてあげることは
とても大切だと思います。

────

ナターシャさんは、
バンドゥーラを弾いたり歌ったりすることで、
どんな気持ちになるんですか。

ナターシャ

曲によって違いますけど、
楽しい気持ちになったり、
悲しい、寂しい気持ちになったりもします。
心に溜まっていたものが外に出ていくというか。
心の深呼吸ができる、という感じかもしれません。
音楽に出会っていなかったら
私は違う人生を送っていたでしょうし、
抱えていた不安と、どんなふうに付き合っていたのか・・・・・・。
私は音楽に救われたと思いますね。

────

子どもは大人以上に
無意識のうちにストレスを溜め込んでしまいますから、
心を解放するための方法を見つけることは大切ですね。
それからもうひとつ非常にやるせないのが、
ふるさとを失う子どもたちがいることです。
国は明言していませんが、
今後数十年にわたって人が暮らすことの難しい地域が
できるだろうとも言われています。
また、福島からの退避については自主避難も多く、
仲の良かった友だちとバラバラになってしまったり、
避難先で被曝差別を受けたりという
落ち着かない暮らしをしている子どもも多いようです。
そんな話を聞くにつけ、
できるなら同郷の人たちが肩を寄せ合って暮らせる環境作り、
たとえば「福島村」のような新しいふるさとを
作ってあげられたらいいのにと思うんです。
ナターシャさんも
プリピャチというふるさとを失ったわけですが、
このあたりのことをどう思いますか。

ナターシャ

そうですね・・・・・・私たちがプリピャチで暮らしていた家は
壊されてしまって、
家が土の中に埋められていくのを偶然見てしまった父は、
あまりのショックに母にもなかなか言えなかったそうです。
私もそれを知った時は、悲しくて泣きました。
そしてプリピャチを離れてからは、
次はここで暮らすのかなと思ったら
また別の場所に移ることになったりと、
最終的にキエフで暮らすことにはなりましたけど、
常に「自分はこれからどこで生きていくんだろう」という
不安を抱えていました。
でも、自分がどこにいたとしても、
とにかくそこで生きていかなくてはなりませんから、
そのためには土地にも人にも慣れなくちゃと
子どもなりに一生懸命でした。
もちろん、ふるさとを忘れたことはありません。
でも、私も含めて避難してきた人たちは
みんなそうやって努力しながら、
その土地を好きになったり新しい友だちを作ったりして
生活を築いていったんです。
それはとても大変なことですけど、
私たちはそうやって生きてきたんですね。

────

ナターシャさんは福島原発の事故が起きた直後から、
子どもたちや若い女性、妊婦たちに
「避難してほしい」と訴えてきましたよね。

ナターシャ

そうです。
ふるさとから離れたくない、戻りたいという気持ちは
私もとてもよくわかります。
それでも、目に見えない脅威から
子どもたちを守らなければならないということを
なによりも大切にしてほしいのです。
まわりが避難しないのに、
自分だけが避難するのはちょっと......というような
気持ちを超えて、
できるだけ安全なところで暮らしてほしいと強く思います。

────

ナターシャさんは『ふるさと〜伝えたい想い〜』という
CDブックのなかで、
「生まれかわることができるのなら、
また同じ家族に生まれ、同じ人生を歩みたいです」と
お書きになっています。
とても苛酷な経験をしながら
「また同じ人生を」と思うことができるのは、
どうしてでしょうか。

ナターシャ

悲しくて、つらい出来事を経験したからこそ
今の自分がいて、
自分が送ってきた人生を通じて
ほかの人に何かを伝えることができます。
何かのため、誰かのために生きることができるというのは、
私の生きる支えにもなっているんですね。
だから生まれ変わって、
まったく同じ出来事を経験して、
同じようにつらい思いをすることになったとしても、
同じ家族のもとに生まれて、
同じ人生を送りたいと思うんです。

────

チェルノブイリでの経験を語り継ぐためにやってきた日本で、
再び原発の事故を体験して、
日本を離れようとは思いませんでしたか。

ナターシャ

もちろん悲しい気持ちにはなりました。
日本はこれからどうなっていくのだろうと
不安な気持ちもありました。
でも私がこれまでにやってきたことは
意味のあることだと思っているし、
私はこのために日本に来たんじゃないかと思うくらいなんです。
大袈裟に聞こえるかもしれませんが、
神様に「あなたは日本に行きなさい」と言われて
ここに来たように思えるんですね。
ですから日本に来たことを後悔はしていないし、
意味があってこの国に来たんだと信じています。

────

ウクライナにいらっしゃるご家族は、
ナターシャさんが日本に留まっていることを
心配なさっていませんか。

ナターシャ

とても心配して、不安がっていました。
今もそれは変わらないようです。
でも私がやっていることをとても理解してくれているので、
そこはわかってもらっています。

────

今、日々の暮らしのなかで
「生きるっていいな」「幸せだな」と感じるのは
どんな時ですか。

ナターシャ

それはもう、いろんなことで。
朝、目が覚めて、
猫が近寄ってきて「ニャ〜」と鳴いた時とか(笑)。
もちろんステージでバンドゥーラを弾きながら
歌をうたっている時には、
「ああ、私は生きているんだなあ」と心の底から感じます。
最後にもうひとつだけお伝えしたいんですが、
チェルノブイリの事故では悲しいことがたくさん起こりました。
病気になった人、亡くなった人もたくさんいます。
でも、みんなが不幸になったわけではないんですね。
プリピャチから避難した人のなかにも
今も幸せに暮らしている人はいますし、
私のように小さな頃からの夢を叶えた人もいます。
福島の事故は本当に悲しい出来事でしたが、
希望がすべてなくなったわけではないことも
どうか忘れないでほしいと思います。