小室等(こむろ・ひとし)

音楽家。
1943年生まれ。フォーク・グループ「六文銭」での活躍を経て、ソロ活動をスタート。
1975年に泉谷しげる、井上陽水、 吉田拓郎とフォーライフレコードを設立。
テレビドラマ「蝉しぐれ」や「高原へいらっしゃい」「遠い国から来た男」、
映画「ナージャの村」、舞台「スパイ物語」等々への音楽提供など幅広く活動。
現在は自身のコンサート活動のほか、さがゆき(Vo)とのユニット「ロニセラ」や、
娘であるこむろゆいとの「Lagniappe(ラニヤップ)」などでの活動も。
オフィシャルサイト






























「自分のなかの誠意を、折れないように持ち続けていく」

───小室等 

2012年1月23日インタビュー:
津田大介の「メディアの現場」2012.3.28.(vol.27)掲載より──


実は、このインタビュー企画を始めるきっかけになったのが、
約1年前の小室等さんとの出会いでした。
音楽の取材でお会いしたのですが、時期が時期だけに、
話は当然3月11日の東日本大震災と福島第一原子力発電所の
事故の件から始まりました。
とはいえ、小室さんはほとんど言葉を発することなく、
ただただ途方に暮れ、うなだれていました。
そんな小室さんの姿は、テレビやネットで大量に飛び交っていた
原発に関する情報、主義主張に飲み込まれていた私にとって、
逆にとても重たいものとして映ったのです。
ずいぶん以前から反原発を公言し、
日本チェルノブイリ連帯基金の理事を務め、
チェルノブイリの4号炉に赴いたこともある小室さんの沈黙。
そこには、思いがありながらも、
結局は原発を止めることができなかったという
ひとりの人間としての深い自責の念がありました。
「今の僕が思ったり考えたりしていることを放り投げると、
結局はそれがブーメランのように自分に返ってくるんです」。
私は、原発をめぐる自責の思いを小室さんと分かち合うことで、
少しだけでも楽になりたかったのかもしれません。



────

小室さんとは昨年の4月8日にお会いしましたが、
取材の始めに福島第一の事故の話になり、
とても憔悴した表情をなさっていたのを覚えています。

小室

僕は1992年にチェルノブイリにも行ってますし、
現地のホットスポットと呼ばれる場所で
人々がどうなっているかということも、
ある程度は目の当たりにしてきたわけです。
だからそういう意味では今回、不安以上に恐怖を感じました。
そしてエゴイスティックですけれど、
それは極めて、自分自身に降りかかる恐怖だったんです。
要するに放射能の問題です。
どうしよう、どうしたらいいんだろうと。
ただ、そういう状態のなかでも、
僕はJCF(日本チェルノブイリ連帯基金)という団体に
関わったりもしているので、
何かあればJCFを通じて情報が入ってくるだろうし、
不安であれば僕のほうから問い合わせようとは
思っていたんです。
だから、闇雲に不安だったということではないですけど、
いずれにしてもあの頃は、放射能で被害を被るであろう
自分を含めた日本の人々がどうすればいいのかについて
何の手がかりも得られないまま、
不安な毎日を送っていたように思います。
心の置きようがないというか、いたたまれないというか、
そんな感じでしたね。

────

当時の心境をもう少し教えていただけますか。
取材の2日後、4月10日の下北沢でのライブの時も、
やはり途方に暮れているように感じました。

小室

あのライブは、できることなら
やらないで済ませたいという気持ちがありましたね。
今は歌をうたう気分にはなれないし、
この状況に太刀打ちできるような
パフォーマンスもレパートリーも無理だと思っていましたから。
だから内心では中止になればホッとするんじゃないかと
思うんですけど、
じゃあ、中止になって与えられる時間を
どう過ごすのかと考えると、
それよりはやはり、
自分がどう途方に暮れているのか、
どううろたえているのかを
ライブを通じて確認するほうを選ぼう・・・・・・
という感じでした。

────

何を歌ったらいいのか、かなり悩まれていましたよね。

小室

だから、震災からちょうど10日後、
ギタリストの鈴木大介さんと鬼怒無月さんのライブを
聴きに行った時には、
言葉がない音楽というのはどんなに素晴らしいことかと
思いましたね。
歌というのは、なまじ言葉があるばかりに、
というところがありますから。
言葉で意味付けられていないことによって・・・・・・
これは普段はあまり使わない言葉ですけど、
癒されるというか。
そして、その時に、
音楽というものに一抹の希望を感じたんです。
もちろん、歌にはなまじ言葉があるという部分は
なんら解決していないのだけど、それでも、
言葉を付帯する音楽をやっている僕も
何かきっとやりようがあるかもしれないと思えたというかね。
後から思うと、あの時に彼らが
僕に力をくれていたんじゃないかと思います。

反原発への目覚めとチェルノブイリ

────

少し遡って、
1970~80年代の反原発運動について教えてください。
アメリカで起きていたほどの規模ではないものの、
日本でも公害などの社会悪と呼ばれるものに対する
運動のひとつとして、
原発の反対運動がありました。
当時、そういう場や空気を小室さんは体験なさっていますか。

小室

なんとなくです。
1970年過ぎに「Nuclear」という言葉が
入ってくるようになり、
フォークソング運動の現場でも
反原発運動みたいなものが起きていることは、
情報としては知っていました。
ただ、それ以上でも以下でもなく。
逆に、アメリカではもっと身近に感じましたね。

────

1981年にニューヨークに行った時ですね?

小室

そうです。
ニューヨークの国連広場の前で行われた
「エルサルバドルを第2のベトナムにするな」という集会に
ピート・シーガーが出るらしいというので行ったんですけど、
会場で反原発の運動をしている人たちが
ビラを配っているのを見ましたし、
その直後だったか、
『目撃者』というアルバムのレコーディングで通っていた
マンハッタンの24丁目にあるスタジオの壁にも
反原発のステッカーが貼られていたんですね。
特にそういった運動が盛んというわけでもない場所にも
反原発のしるしのようなものがあるということが、
日本では見ない光景だなと思いました。
それほどシリアスにではないものの、
シンパシーも持ちましたね。
だからといって、日本に帰ってきて
何かをするというようなことではなかったんですが。

────

それは小室さんが
フォーク・ムーブメントの渦中にいながら、
音楽で人をアジテートしたり、
音楽が何かの目的の道具になったりすることに
違和感を持つようになっていったのと関係しますか。

小室

たしかに音楽の上ではそういう気持ちでした。
でも、ひとりの人間としての
日常のなかでの在りようというのは別の話ですからね。
人間としては、もっと深い認識を持ったうえで
そこにいるべきだったんじゃないか・・・・・・そう考えると、
そういう姿勢からはあまりに遠かったと思います。
でも、誰かと話をしていて、
原発のことが話題に出なかったわけではないんですよ。
もちろん僕は、反原発の立場でやりあって。

────

当時、小室さんのまわりでは
原発に関してどんな意見が主流だったんですか。

小室

これはもう、
1986年のチェルノブイリ事故の後のことですけど、
ある仲間同士の定例的な集いがあって、
そこには原発関係の元従事者の方も参加していて、
当然ながら原発に関する話も出るわけです。
すると、その方はとにかく
「事故はあり得ない」と言うんですね。
「小室さん、日本の原発で事故というのは、
あり得ないんだ」と。
何重にもセイフティがかかっているから絶対に大丈夫だと。
そういう話を聞くと、その場にいるほかの人も
エネルギー問題をどう解決するかということにおいて、
「やはり原発を推進せざるを得ない」という流れになるんです。
そして、日本の原発の安全性は世界に誇れるものだと。
僕は、この言い方が科学的か非科学的かはわからないけれど、
物事に100パーセントというのはあり得ないと思っています。
だから、たとえほんの少しでも危険性があって、
なおかつ放射能の問題が解決してないのだから、
原発を推進するわけにはいかないと言うんだけど、
もう、「話にならない」という感じなんですよ。
チェルノブイリの事故についても
「あっちは管理がずさんなんだ」という話で終わってしまって。
そういう感じでしたね。

────

小室さんのなかで反原発への意識が高まったのは、
やはりチェルノブイリ事故がきっかけだったんですか。

小室

たしかに関心は強くなりましたけど、
あの頃はまだ、
本気で反対運動をやっている人たちほどには
切実には感じていなかったと思います。
たとえば広瀬隆さんの本を読んでも、
頭のどこかで「これは広瀬さんの説だ」と思っている。
広瀬さんのおっしゃっていることの相当量は事実としても、
広瀬さん個人の結論というものがまずあって、
そこに向かって集めたデータや情報が
書かれているのかもしれない・・・・・・。
そう思わなかったかというと、やっぱりどこかで思ってました。

────

それでも1991年に設立されたJCFでは、
当初から理事として参加をなさったわけですよね。

小室

それは誘われたのを断れなかったからで、
それほどシリアスに感じていたからではないんです。
JCFは、松本市にある神宮寺の住職の高橋卓志さんや、
医師の鎌田實さんが中心になって設立されたものなんですが、
高橋さんは以前から
宗教者はどうあるべきかということの延長線上として、
タイのHIV感染者のサポートや
障碍を持った人や高齢者のサポートをしていて、
僕も高橋さんに誘われて、折に触れ活動の隅っこにいたんです。
だからJCFが設立された時も、
高橋さんたちがやっていることだから
絶対に必要なことに違いない、
僕がちょっとでも役にたてるなら
どうぞ使ってくださいというような気持ちだったんです。

────

活動そのものに積極的だったというよりは、
縁の延長線上での参加だったと。

小室

そうです。
僕はだいたい、なんでもそういうところがあるんです。
だから、JCFは設立当初から、
少なくとも2カ月に1度は
チェルノブイリに医師や専門家たちによる派遣団を送っていて
僕も誘われていたんですが、
そこまではお供していなかったんですね。
でも2年目になると、さすがにもう断れない感じになり、
それでチェルノブイリ・・・・・・正確にはベラルーシの
チェチェルスクに行ったんですが、
正直なところ、そんなに行きたくはなかったんです。

────

訪問にあたって、
放射能に対する不安はありませんでしたか。

小室

専門家からは、
向こうで放射能の含まれているものを飲み食いして
大気の外部被曝をしても、
10日間程度のことであれば2〜3カ月で代謝するし、
健康に影響するようなことはないと
一応の保証をいただいたんですね。
あとは測定器を持たされて。
まあ、それ以外のことはよくわからないまま
行ったような感じでした。
で、モスクワから12〜13時間でゴメリ市の駅に着き、
ゴメリから1時間ほど車を飛ばして
チェチェルスクに行くんですが、
その道中、行政指導で強制移住させられ、
誰もいなくなった廃村の横を通るわけです。
村の入口にはドクロのマークの看板が立っていてね、
同行の人が「ちょっと入ってみましょう」なんて
言うわけですよ。
僕は「えーっ・・・・・・」と思いながら、
仕方なくそこに足を踏み入れて。

────

当然、放射能測定器の数値は上がったわけですよね。

小室

300、400(キュリー)と、ガーッと上がりました。
当時、日本で測ると20前後でしたから、10倍以上です。
家畜小屋やかまどに近づくと、さらに上がる。
家畜は放射性物質を吸収した食物を食べ、
さらに糞のなかには濃縮された放射性物質が残留しているし、
台所はかまどで薪を燃やすと
薪のなかの放射性物質が灰のなかに凝縮して残りますから、
ぽーんと800くらいになるわけです。
ただ、すごかったのはやはり
事故を起こしたチェルノブイリ原発の近くに行った時でした。
何日か目に国境を越えて行って4号炉の前で測ると、
15,000まで測れる測定器が振り切れて、
測定不能みたいなことになったんです。
事故が起こるとこういうことになるんだというのを、
ある意味、目の当たりにした気がしましたね。

────

そういった高濃度汚染の影響を、
数字以外で実感するようなことはあったんでしょうか。
たとえば、街に病気の人が多いなど、いかがでしたか。

小室

いえ、僕が行った界隈では、
日常生活のなかで放射能の影響が
目で見てわかるとうようなことはなかったです。
みんな普通に暮らしていましたね。

────

測定器の数値だけが高いという。

小室

そうです。
明らかに健康障害を起こしている人たちは、
たとえば村の中央病院でJCFの医師たちが診察をして、
さらに検査が必要と思われる人たちは
ゴメリの大きい病院に行き、
そこでより精密な検査や治療をしていたんです。
僕が行った時は、15歳前後の子どもたちの診断をして、
いろいろなデータを集めていましたね。

────

JCFの派遣団の主な役割は治療と調査ですか。

小室

JCFがまず最初に取り組んだのは、
子どもたちの甲状腺の問題でした。
最初は、健康障害を起こしている子どもたちを
日本に連れ帰って治療してほしいというSOSが舞い込んで、
とにかく現地に行ってみようと、
高橋さんや鎌田さんらが行ったんです。
で、チェチェルスクは
たまたま迷い込んだところだったようなんですが、
そこでいろいろと見聞きするなかで、
子どもを日本に連れて行って治療するのでなく、
日本からこちらに来てサポートしないと無理だということが
わかったんですね。
そこで、今は松本市長でもある菅谷昭先生が中心になって、
まずは甲状腺の治療から始めることになりましてね。
ご承知のように、菅谷先生は信州大学を辞められて
現地に1年以上行っていたんですが、
本来は現地の医者の資格がないと
法律的に執刀はできないんです。
けれど、すでに医師としての実績がありましたから、
向こうの病院長の暗黙の了解のもと、
行ったその日から執刀をなさっていましたし、
そういう姿を見て現地の医師たちも
こちら側が本気だというのをわかってくれ、
それ以降は手のひらを返すように協力的になったようです。
ただ、JCFとしてのメインの目的は調査です。

────

調査というのはやはりチェルノブイリ事故による
放射能汚染と疾患との因果関係でしょうか。

小室

当初はそうでした。
因果関係についてはどうやっても
100パーセント確定的に言うことはできないようですけど、
それでも、そうでしかあり得ないだろうという
データを集めていったわけです。
ただ、鎌田先生や菅谷先生は辛抱強かったですね。
現地の健康障害が原発の放射能のせいだと、
なかなか言わなかった。
どう考えてもこれは原発事故による放射能のせいだとしか
言いようがない、ということを言い始めたのは、
何年も経ってからです。
そういう意味でも僕は、 JCFの活動というのは
情緒に流されているものではないという思いを
強く持っていましたし、
ベラルーシに連れて行かれてからは本気で・・・・・・いや、
今思えばまだ本気じゃなかったんだけど、
僕のなかでは確実に反原発という思いが強まりましたね。

────

現地に行ったことによって、小室さんのなかで
具体的にはどういう変化があったんでしょうか。

小室

行く前というのは技術的なことも含めて、
漠然と「日本よりチェルノブイリのほうが危険だ」と
思っていたわけですが、
実際に行ってみると、向こうのほうが全然安全というか。
置かれている土地の広さと事故によって被る被害・・・・・・
日本はこの狭い国土に、しかも活動層の上に、
これほどたくさんの原発を置いているということの危険性を
それまで以上に理解したわけです。
でも、結局は頭でわかっただけだったんですね。
チェルノブイリの4号炉まで行って、
原発は安全ではない、
事故が起これば大変なことになるというのをこの目で見た。
1999年には東海村の事故もあった。
事故が起きないなんて思っていないはずなのに、
それでも明らかな態度というものを日常的に持てなかったのは、
いったい何だったんだろうと思います。

加害者であることの自己嫌悪

────

小室さんは1994年の
2度目のベラルーシ行きから戻ったあとに、
『ベラルーシの少女』や『雨のベラルーシ』などの曲を
作っていらっしゃいます。
そこにはやはり、向こうで見聞きし、感じてきたものを
日本で伝えたいという思いがあったんでしょうか。

小室

高橋さんや鎌田先生が
僕をベラルーシに連れていくにあたって、
当然、小室の行動が何かしらキャンペーンとして
機能してくれたらという思いがあったと思うんです。
それで曲も作って、ライブでもそういうことを話題にしながら
歌ったりもしました。
でも、回を重ねるうちに臆してくるんですよ。
客席から、「せっかく音楽を楽しみに来たのに、
説教をされている気がする」とか、
そこまでではなくても、
「その話題は今日はやめてもらいたい」というような空気を
感じるようになったんです。

────

観客はそんなものを望んでいないと。

小室

そうです。
でもね、世のなかではいつのまにか、
コマーシャルも堂々と「原発は安全だ」と言うようになり、
僕としては「いつから原発を
安全だと言っていいことになったんだ!?」と
思っていたわけです。
しかも腹立たしくもやるせないのは、
コマーシャルに子どもを出演させた。
この子どもたちが大きくなってから、
何も知らないまま
そういうものに加担させられていた過去を知った時に
どう思うか・・・・・・。
しかも今となっては、
福島第一の事故も経験してしまったわけですからね。
そういう大人たちの無神経さというか、
想像力のなさによって子どもを利用するというのは
本当に酷いことだと思っていましたから、
ステージの上で、そういうことも何度か言ったんです。
けれども、さっきも言ったようにだんだんと臆してきて、
言う回数が少しずつ減り、
挙げ句には、ライブのなかにそういう時間を作ることを
やめてしまった。
その矢先の3月11日という感じだったんです、
僕にとっては。

────

ただ、3.11以前は、
そういうメッセージを受け取る側の耳が
ふさがっていたのも事実だと思うんです。
小室さんのように以前から問題意識を持っていた人のなかには、
無力感に打ちのめされ、
声をあげるのを止めてしまった人は少なくないのではと。

小室

いや、でもね・・・・・・。
だから、たとえば阪神淡路大震災では、
お年寄りや障碍を持った人のケアの問題など
いろいろなことが浮上したわけですが、
犠牲が多かったぶん、
せめて世のなかが変わるきっかけにするというか、
行政や僕たちがきちんとした認識を持って
そういう課題に対峙していかなければいけなかったんです。
しかし結果的には、そういった状況はさほど改善されないまま、
街は復興したという形になってしまった。
逆に、これを機会にと街をきれいに区画したことによって
以前のような暮らしが営めないなどの問題が
増えた部分もあった。
そういったことに対して誤解されるのを覚悟で言うならば、
人間なんて結局そんなものか・・・・・・と思いましたね。
まったく度し難いものだなあと。
けれど諦めるわけにはいかないから、
思いのある人たちが
思いを持ってやれることをやり続けるしかないわけです。

────

小室さんが呼びかけ人として参加している
阪神淡路大震災をきっかけに生まれた「ゆめ風基金」も、
そういう「思いを持った人たち」の集まりですね。
さまざまな自然災害の被災障碍者を支援しつづけている。

小室

そうです。
ただ、天災だけのことならば、
気持ちの持って行き場があるんです。
もちろん ご不幸を目の前にした時には
気持ちの持っていき場なんかないんですけどね。
今回の東日本大震災についても、
津波の被害は本当に凄まじいものだし、
いまだに大変な状況ですが、
それでも人は再生していき、
人間以上に自然が再生をはかっていきます。
けれど、原発は人災で、
火事が起きたのともわけが違う。
自然もそう簡単にはもとの状態には戻らないでしょうし、
人間もそこにはおそらく帰れない。
僕はそういう場所をベラルーシでも見てきました。
もちろん、それでも帰ってきてしまう人たちはいます。
お年寄りは「放っておいてくれ」と。
寿命と放射能の影響を天秤にかけても
それほど変わらないんだから、
もう放っておいてくれという人たちもいました。
でも、基本的には住民たちは移住を余儀なくされ、
二度と帰れなくなる。
その人たちは一番の被害者です。
でもね、これも誤解されるのを覚悟で言うならば、
その人たちは被害者であると同時に加害者なんですよ。
この原発の事故を起こした責任というものが
僕たちみんなにあるとするならば、
彼らもその1人。
もちろん僕のなかにも加害者であるという意識があります。
だから、自分が思ったり考えたりしていることを放り投げると、
結局、ブーメランのように自分に返ってくるんです。

────

気わかります。

小室

さらに、ここまでのことを突きつけられたことによって、
自分はいったいどうやって生きてきたのかということにまで
思いが及ぶわけです。
自分が酷い人間だというのは自覚して生きてきましたけど、
とはいえ、酒を飲んで憂さを晴らすようなときに
「俺って、ひでぇ奴なんだよ」と言う程度であって・・・・・・
いや、自分ではけっこう酷い人間だとは自覚しているんです。
たとえば、男の女に対する振る舞いだとか。
でもそれは俺が生まれる前からそういうものなんだから、
というように言い放って済む程度のものでしたよ。
でも今回のことで、それでは済まなくなった。
自分の誠意のなさみたいなものを突きつけられたわけです。
それでも、
人間はそんなふうにばかり考えては生きていけないから、
忘れたり考えないようにする。
で、ありがたいことに、
そうしようと思えばできちゃうものだから、
そうやって生きていく。
今だってそうやって生きてはいるんだけれども、
3.11の前は、ずーっとそうやって生きていられたんです。
でも3.11の後は、自分がしでかすあらゆることに対して、
「まあいいや、忘れちゃおう」とはなれなくて、
「おまえのそういう態度が3.11を引き起こしたんだろう」
というように突きつけられるんです。

────

あらゆる場面に、
根源的な自己嫌悪がつきまとうわけですね。

小室

だから、歌をうたっている最中にも
ふっとそういう思いが出てきて、
すっと冷めるというかね。
パフォーマンスというのはある種、脳天気に、
無自覚にヒートアップしていくものです。
自分もみんなも欲しがっている嘘を、
それが本当であるかのように、
せめてコンサートのなかでは嘘が本当であるというふうに
実現するというか。
もちろんコンサート会場を出れば現実が待っているんだけどね、
というところで成り立っているものなんですが、
やっている最中に、ふっと冷めてしまうんです。
聴いているほうにも、そういう時はあると思うんですよ。
歌の、音楽の何かによっていざなわれていく途中で、
日常とのギャップのようなものをふっと感じたりすると、
そのパフォーマンスに最後までついていくことができなくなる。
そういう冷める瞬間というのが、
3.11以降はとても多くなってしまったんです。

生きることを肯定する装置

────

3.11の直後は、あまりに強烈すぎる現実に
心が張り付いてしまって、
小室さんの言う「本当であるかのように実現された嘘」に
心を逃すことのできなくなった人は多かったと思います。
そのいっぽうで、
時間が経つにつれ音楽は再び求められるようになり、
衝撃や悲しみで硬直した心を解きほぐす役割を果たしています。
そして小室さんも、ご自身の音楽活動50周年を記念する
昨年7月11日のコンサートに「復興」という言葉を掲げ、
そのライブ盤のライナーノーツのなかで
「このライブのテーマは、
ミュージシャンであるところの自分自身の復興だった」と、
そして、 復興は遥か遠い出来事だろうが、
音楽のなかで「回復」することは可能だとわかったと
書いていらっしゃいます。
それは小室さんが音楽のなかに
なんらかの希望の光のようなものを
見出したということだと思うんですが、
そこをもう少し教えていただけますか。

小室

7月11日のライブでは、
シークレット・ゲストだった井上陽水さんを含めて
総勢23人のミュージシャン、出演者が、
ほとんど即興でパフォーマンスをしたわけですが、
複数の人間が複数の楽器を持ち寄って演奏をするというのは
支え合うことなんだというのを、
ものすごく感じたんです。
みなさん、僕の50周年のために集まってくれたので
こういう言い方は躊躇しますけども、
誰もが何かを成立させようというモチベーションを持って
演奏しているんですね。
誰かの足を引っ張ろうとか、
おまえとなんかできない、なんていうようなことは微塵もなく、
その場でその瞬間に音楽を成り立たせようという時に、
皆が瞬時にアンサンブルをするわけです。
もちろん、メンバー誰もが優れたミュージシャンであることは
言うまでもないし、
それは前提かもしれない。
それでも、20人以上ものミュージシャンが
一斉に音を出すわけですから、
ぐしゃぐしゃになる可能性だって充分にある。
でも、そうはならないんです。
それはなぜかというと、
瞬間的に気配を感じ取るからなんです。
「あいつはあっちに行こうとしているから、
俺はこっち側からまわっていこう」というようなことです。
で、誰かがちょっと間違っても・・・・・・
たいていは僕がやるわけですが、
そういうミスも、皆で支え合って回復させていくというかね。
だから、そのミスは犯した時にはミスなんだけど、
終わってみるとミスでもなんでもないっていう。
そういうことが7月11日のライブのなかで起きていて、
その体験が、僕を大きく力づけてくれたんです。

────

支え合いが回復を促すのだと。

小室

そうです。
つまり支え合うことによって
肯定的に生きられるんだ、っていう。
僕らミュージシャンがやるべきことは、
ハレやケの時に必要とされる者として
いつでもスタンバイしていることだと思うんですね。
3.11を経験した僕らはこの先、個人差こそあれ、
無力感や絶望感みたいなもののなかで、
それでも生きていくわけです。
おそらく今も、生きていく甲斐がないと思ってしまうような
場にいる人たちも少なくないかもしれないけど、
それでも生きているのは、死ねないから・・・・・・。
だとするならば、死ねない、その命を肯定して、
支えていく装置みたいなものがなきゃ、
やっていけないだろうと思うんですよ。
で、行政的には、避難所を仮設住宅に、
仮設住宅をまた違うものにというようなことが
行われていくわけですけど、
そういう即物的なことじゃなく、
人と人とが一緒に生きていくということのなかに、
助け合う、支え合う装置というものは
なくてはならないものだと思うんです。

────

装置というのは、無形の、他者という存在であったり、
そこから生まれる繋がりや人情のよ うなものですよね。
今、東北の被災者の方だけでなく
東京などの離れた場所においても、
程度の差こそあれ、
サヴァイヴァル・ギルトのようなものに苦しんでいる人は
少なくないと思います。
それは単に生き残ってしまった後ろめたさだけでなく、
あまりに大きな災禍を前に
自身の無力さや愚かさを突きつけられ、
まさに小室さんがおっしゃるように
生きる甲斐を見失っているということかもしれません。
そんな時にまず必要なのは、
「生きていていいんだ」と思わせてくれる何か。
これ以上落ちないように支えてくれる、
日常のちょっとした温かさだったりするのでしょうね。

小室

そういうものは、昔であれば人の営みのなかに、
ごく自然にあったものです。
幸か不幸か、僕らが子どもの頃は世のなかが貧しかったから、
助け合う装置がいっぱいあったわけですよ。
醤油の貸し借りが日常的に当たり前のことだったり。
ものすごく貧乏で、
つらい思いをした人もたくさんいたかもしれないけれど、
だからこそ誰もが日常的にあげるし、もらう。
定価のついた商品をただ売り買いして
生活を成り立たせるというような、
心の通わないものではなかった。
もちろん、なんでもかんでも心が通い合うなんていう、
『一杯のかけそば』みたいなことは、僕は思いません。
世のなかがそんな単純なことだとは思わない。
そして僕は、そういう「心が通い合う」ということに対して、
自分がものすごく不誠実だったり、
冷たい人間だという自覚があるんです。
それを、そうならないように学習して生きているだけで、
根っこには不誠実さや冷酷さもある。
でも、人のメカニズムのなかに心の通い合いがあると、
それが僕みたいな人間も救ってくれる気がするわけですよ。
で、そういうことが成り立つところに、
生きていこうという気持ち、
生きることを肯定する気持ちが生まれるんだと思うんです。

────

それが、希望。

小室

希望・・・・・・ですよね。
人は、明日に希望が持てるから生きていける。
投げやりになっても生きていけるのは、
心のどこかにちっぽけでも
自分でも意識しない希望のようなものがあるからだと思うし、
そうであるなら、
そういう通い合う世界の実現がどうしても必要で、
そのメカニズムのなかには、
ハレとケのところを担う装置が必要で・・・・・・。
芸術もそうかもしれないけど、僕ら芸能の者も、
その欠かせない装置の一端を担っているんじゃないか、
というふうには、
少し思えるようになってきた気がするんです。

────

その役割を取り戻したことが、
小室さん自身の回復に、そして
希望につながっているわけですね。

小室

そう、役割はあるんじゃないかと・・・・・・
あてずっぽうに思っているんです。

新曲『なんどでも』に込めた“駄々”

────

7月11日のコンサートのアンコールでは、
『なんどでも』という新曲を披露されました。
小室さんは以前、著書のなかで、
武満徹さんの
「人生を肯定しないと音楽は生まれない」という言葉に
共感なさっていましたが、
新曲が生まれたということはやはり、
小室さんのベクトルが今一度、
「肯定」のほうに向かい始めたということでしょうか。

小室

それはやっぱり、
3.11によって自分の無力さみたいなものを
嫌というほど思い知って、
それ以降、自分は音楽なんてできないという思いが続いて、
それでも仕事だからやらなきゃいけないし、
やっていたわけです。
で、やるからにはなんとか自分の音楽を、
モチベーションを肯定的に持ちたいと思うけれど、
なかなか持てない。
とにかく、このような時に
このようなことをテーマにした歌なんか歌えないし、
作れない。
でも、自分の持っているレパートリーのなかで、
3.11の衝撃に太刀打ちできるものが見あたらなくて、
なんとかならないものかという思いがあったんです。
で、僕は、被災地に行って歌うということはできないと
はなから思っていたんですね。
歌いたいという気持ちも持っていなかったし、
今も持ってはいないんです。
結果として行くことになったことはありましたけど。

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被災地で歌いたいと思わないのはなぜですか。

小室

被災している人がどんな歌を聴きたいかが
わからないからです。
そうでなくたって、
自分の歌を聴きたいと思ってくれる人が
どの程度いるかなんてことは、
おぼつかないわけですから。
それでも、ライブをやって、ひとさまが来てくださったなら、
それはたぶん聴きたいと思って来てくれたんだろうと
信じて歌うわけですけれども。
とにかく被災地に行って、
「そちらで歌いたいので、そういう場を作ってください」
というようなアプローチは、
僕のほうからは出るべくもない。
なので、途方に暮れていた気持ちが
少しずつ緩和してきてからは、
3.11を受けて
「いったい何を歌えばいいのか」と突きつけられた僕が
僕自身に歌える歌・・・・・・というアプローチで、
ずっと思ってきたわけです。
で、7月11日は、もしアンコールがあれば
『雨が空から降れば』を歌う予定だったんですが、
サプライズのゲストに決まった陽水さんが
「『雨が空から降れば』を歌いたい」ということになり、
アンコール用の曲がなくなっちゃった。
それが僕自身を後押しする理由になったというか、
作れない作れないと言っていたのが
作らなきゃいけなくなって、
それでできたのが『なんどでも』という曲なんです。

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この『なんどでも』は、
「なんどでも生まれかわる」という意味ですね。

小室

我々は原発に、放射能によって、
再生不可の可能性を突きつけられたわけです。
その不可を突きつけられたことに対して、
冗談じゃないと。
理屈じゃなくてね。
「何度でも生まれ変わってやる」という・・・・・・
そういう駄々をこねるのは、
音楽くらいはやっていいんじゃないかという気持ちでしたね。

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コンサートでこの曲を聴いて号泣したんです。
どうしようもない不可に対する小室さんの
駄々に共鳴したところも大きいと思いますが、
その少し前から、
もはや自身の生活のありようを見直すくらいでは間に合わず、
生きるとはどういうことなのか、
命とは・・・・・・という死生観のような、
根っこのところから見つめ直さなければ、
原発や放射能の問題には
対峙できないのではと思っていたんです。
ですので、エンドレスかと思うような
「なんどでも生まれかわる」のリフレインには
とても揺さぶられました。

小室

7月11日の時はもう、みんな、
ああやって歌いたかったんだと思いますね。
「なんどでも、なんどでも・・・・・・」って。
でも、あの歌をいつでもどこでも歌えるかというのは、
わからないんですね。
それほど生命力のある歌かどうかも僕にはわからない。
自信はないんです。
あの歌を堂々と歌い続けていく自信は。
駄々をこねたんだとすれば、
そんなにいつまでも駄々をこねていられないだろうという
思いもあるし。
今も歌ってますけど、
歌いながら逡巡する気持ちはどこかにあります。

卑劣にならず、誠意を持ち続ける

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先ほど死生観という言葉を出しましたが、
大人は子どもに比べれば身体的な影響も少なく、
それこそ死生観などを考えることによって
人生に意味を持たせることも可能です。
同時に、大人として、
それぞれがそれなりに背負わなければいけないものもある。
ですが、子どもたちは何の責任もないにも関わらず、
住まいや自由を奪われ、健康を脅かされています。
子どもたちには夢や希望を持って生きていってほしいのに、
私たちは「明日は今日より良くなるよ」と言うことさえ
躊躇われるありさまです。
福島の子どものなかには
「私は子どもが産めるの?」と
親に訊ねる女の子もいると聞きます。
そんな子どもたちに、
夢や希望や生きるということについて、
私たちはどう伝えていったらいいのでしょうか。

小室

僕の歌のなかに、
谷川俊太郎さんが詞を書いている
『お早うの朝』というのがあるんですが、
その3番が、
「ゆうべ見た夢のなかでぼくはきみを抱きしめた、
はだしの足の指の下で何故か地球はまわってた」
という歌詞なんです。
この部分が、僕は一番歌いにくかったんですね。
実感が伴わなくて。
俊太郎さんは自然に対して
独自の思いを持ち続けている人なので、
そんなにたいそうなことを言っているつもりは
ないのかもしれないけど、
「はだしの足の下で地球がまわってる」と言われてもなあと、
僕は思っていたわけです。
でも3.11の後に、
あの3番がものすごく実感として感じられたんです。
僕は3.11によって初めて地球を意識した気がするんですよ。
で、その時に、人間の起源はアフリカにあるという説が
有力だけれど、
それが生まれ変わり生まれ変わりして、
僕のところまで生まれかわって・・・・・・ということも
実感できたというか。
だから「なんどでも生まれかわる」というのは、
実感は実感なんですよね。
そして今は、それを言いつのるくらいしか
手がないという・・・・・・。
言葉にしていくと少しずつ違ってくるんだけれども、
一番シンプルなところにしか確かなことはなくて、
『なんどでも』は、
その一番シンプルなところだけを歌にしたんですね。
言いたいことはとにかく
「キスをして、抱き合って、なんどでも生まれかわる」
っていうことだけ。
それを、「そうだよね」と思ってもらえたらと・・・・・・
そういうことしか、今の僕には言えないんですけれどね。

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ある人が、
「夢や希望がなくても明るく生きていくことはできる。
家族や仲間を大切にし、
幸せを日常から見出すことができれば」
というようなことを言っていたんです。
夢や希望を「生きる」を照らす光とするならば、
それは「足の下で地球がまわっている」ことや、
音楽によって支え合う素晴らしさに喜んだり感謝したりという、
日々の一瞬一瞬の思いのなかに宿るものなのかもしれませんね。
言葉にすると理屈っぽくなってしまいますが。

小室

だから理屈で考えるなら、
僕らは死によって生かされてるというかね。
そして死を肯定的に捉えることによって、
生きるということが輝くという。
なんども生まれ変わり生まれ変わりして
今の自分がいるんだという、
さっき言ったような考え方もできるわけです。
ただ、放射能というのはそもそも
地球の生態系のなかにはなかったもので、
太陽系にあるものなんだと
中沢新一さんあたりが言っているけど、
それを生態系に取り入れたことによって何が起きるかというと、
人が足を踏み入れられない場を作ってしまう。
それは死生の概念を超えるものです。
僕たちの死と生の営みには、
少なくとも今の段階では相容れないもの。
だから、あれにはお引き取り願わないとならないんです。

そう考えていくと、また話が最初に戻ってしまうけど、
福島の富岡に夜ノ森公園という桜の名所があって、
桜にまつわる文章を公募する「桜文大賞」というのが
あるんですね。
それを、僕と佐高信さん、吉永みち子さん、
杉浦日向子さんの4人で、
5〜6年、選考委員をやっていたんです。
僕が座長みたいな形で。
その2年目か3年目の時に、
スタッフが賞のひとつに
「東京電力賞」を出したいと言い出して。
彼らにとっては何の違和感もないのだろうけど、
僕は「えっ!?」と思ってね。
富岡が原発で成り立っていることはよく知っているし、
それに対して住民でもない僕は
何かを言う立場ではないけれど、
東京電力賞を出すとなると、
それは自分を曲げることになる。
原発反対というのは、
言ってみれば東京電力に反対なんだからと言ってね。
そうしたら
「じゃあやめましょう」ということになったんだけど、
考えてみれば桜文大賞に限らず、
富岡町のさまざまなことが
原発に関わるお金で賄われているわけです。
だとするならば、そこで選考委員をやること自体を
原発推進に加担しているとみなす人もいるのかもわからない。
そこまでいくともう、風が吹けば桶屋が儲かる、
みたいなことかもしれないですが。

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桜文大賞のスタッフと、
そういう話をする機会はあったんですか。

小室

いや、なかったですね。
それでもやはり「本当のところはどうなの?」という思いは
ありました。
この町を原発ではないもので生かしていこうと
考えたりはしないのかな・・・・・・と。
酒の席でくらいは、
そういう話が出ても良かったんじゃないかなと
思ったりしましたね。

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3.11以降、夜ノ森出身の若者と話しましたが、
地元の友人同士であっても
原発が話題に上ることはなかったそうです。
原発の存在に違和感を持ってはいても、
それを口に出せる雰囲気はなかったと。
こうなってしまって、
多くの人が大きな葛藤を抱えているようです。

小室

そういうことは、あらゆるところに及んでいますよね。
事故を起こした原発の処理の問題にしても、
そこで雇用されて生きる人たちのことに
僕らは目をつぶっているわけです。
本来だったら否定しなくちゃいけない。
命に関わるような仕事を強いちゃいけないと。
それでも僕らが黙っているのは、
誰かにそれをやってもらわないと、っていう。

僕が昨年4月から番組を持っているFM世田谷は
三軒茶屋のキャロットタワーの26階にあって、
展望ロビーにサテライトのスタジオがあるんです。
ロビーにいる人からも
リクエストや意見をもらえるようになっているんですが、
始めて1カ月も経たないような頃に、
南相馬から来ているという人がロビーにいて、
メッセージをくれたんですね。
自分は消防署員で、1日だけ休暇をとって、
東京に避難させている妻と子どもに会いに来ましたと。
「どなたですか」と声をかけたら手を挙げてね。
若い奥さんと小さな子どもと一緒にいて。
自分はこれから南相馬に帰るところですと言うんです。
僕は「くれぐれもお気をつけて、無事をお祈りしています」
というようなことをラジオの放送を兼ねて言って、
彼を送り出したんだけれど・・・・・・これって、
出征する兵士を送るのと、どう違うんだ?と思ったわけです。
ああ、俺は出征する人を万歳で送った人たちを
責めることはできない。
そんな資格はないと、あの時、
本当にそう思いましたね。

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ええ。

小室

なんだ、俺はこんな簡単に、
そういう立場になれてしまうんだと思ってね。

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それを望んでいるわけでもないのに。

小室

そうなんです。
だからね、原発の事故というのは、
僕らにあらゆる不当なことを強いているわけです。

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そして、その原発は
私たちが容認して作ったものですね。

小室

本当にそのとおりです。
だからせめて、3.11を経験した僕らは
そのことをきちんと認識して、
自分のなかの誠意みたいなものを
折れないように持ち続けなきゃいけないと思うんです。
たとえば、孤軍奮闘している山本太郎さんに、
ややもすると、より専門的な知識を持っている人が
ディヴェートを仕掛けて、
彼が答えに窮する時もあるわけです。
でも、そんな時に彼を孤立させてはいけない。

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小室さんは、山本太郎さんの
原発や放射能問題に対する活動を
どうご覧になっていますか。

小室

僕が見ていて思うのは、
彼は一生懸命にがんばっているんだけれども、
世のなかがなかな か動いてくれないから、
よりがんばってしまっているんじゃないかとね。
でも、彼が孤軍奮闘しなくて済むように
みんなが変わっていかなくちゃと思います。
誰かの代表になって動くというのは、
傷つく可能性がすごくあるのだから。

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小室さんもかつて、
日本でまだフォーク・ムーブメントが起きる以前に、
反戦や差別をテーマに歌い続けた時期がありますよね。

小室

僕がフォークソングを始めた時は、
フォークソングで世のなかを変えられると思いましたよ。
本当に、軽々しくも、そう思っていたんです。
そして、ほかの人がそういうことに
意識を向けないことに対して、
上から目線でものを言っている自分を認識して、
自分をものすごく嫌悪したことがあります。
僕自身もそういう体験もしているし、
岡林信康なんかも傷ついてしまっていた。
太郎さんが、そういうことにならないように
しなきゃいけないと思います。
ふと後ろを振り返ったら誰もいなくなっていた、
ということにならないように。

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私たちはこれから、自分たちの過ちの結果を背負い、
次世代のために償っていかなければなりません。
かといって卑屈になることなく、
子どもたちに信頼できる背中を見せていく・・・・・・
それも大人としての役目であり、責任だと思います。
けれど、その道は非常に険しいですね。

小室

最終的に思うのは、
結局は自分のことで手一杯なわけです。
少なくとも僕は、今いみじくも言われた
「信頼できる大人」ではない可能性が充分にあるんですね。
だからこそ、そんな自分でもやれることのなかで、
信頼に足ることを見つけられたらと思うわけです。
虫のいい話ですが。
少なくても、卑劣な自分というものが存在しているのは
わかっていますから、
卑劣にならずにいられる装置を身につけたいと思いますね。
そして先ほども言いましたけれど、
3.11を経験した僕らは、
自分のなかの誠意をね、
折れないように持ち続けていかなきゃいけないと思うんです。