小林麻里(こばやし・まり)

1965年、名古屋市生まれ。
服飾雑貨の販売やバイヤーの仕事を経て、バブル崩壊後に退職。
環境や社会問題に関するイベントや映画上映会のスタッフを務め、
執筆や編集業なども学ぶ。
2004年、結婚を機に飯舘村に移住。
夫と共に米や野菜、果樹を育て、自給自足的な暮らしに入る。
2007年に夫をがんで喪い、地域通貨の会「どうもない」に入会。
仲間たちのサポートを得ながら飯舘の森のなかでひとりでの暮らしを続ける。
2010年から飯野町の「福祉 NPO 青いそら」で事務の仕事を始める。
現在は愛犬、愛猫と共に飯野町の職場近くで避難生活を続けている。
2012年5月に『福島、飯舘 それでも世界は美しい─原発避難の悲しみを生きて─』
(明石書店)を上梓。






























「人はそう簡単に他人を救えない。けれど、
人は人にしか救えない」

───小林麻里 

2012年7月28日インタビュー:
津田大介の「メディアの現場」2012.11.14.+8.15.(vol.50)掲載より──


小林麻里さんの著書『福島、飯舘 それでも世界は美しい
─原発避難の悲しみを生きて─』に出会ったのは偶然でした。
偶然でしたが、タイトルの「それでも世界は美しい」という、
とても本質的で、
現在の日本を覆っている闇と光の両方を内包する言葉に引き寄せられ、
本を閉じた時には、飯舘を訪ね、
小林さんにお会いすることを決めていました。
小林さんは「人間は社会の狂気の一部であると同時に、
その対極にある自然の一部でもある」と言います。
そして我々はいま、原子力発電所の事故という惨事によって
そのどちらと繋がって生きていくのかを問われており、
その葛藤から目をそらしてはいけないのだ・・・・・・と。
5年前に最愛のご主人をがんで喪って以来、
生きるとはどういうことなのか、
人が救われるとはなにを意味するのかを飯舘の深い森のなかで
ひとり考え続けてきた小林さんが、
3.11をどう受けとめ、
これからをどのように生き続けようとしているのか──。
彼女の著書の特別版としてご一読ください。



────

小林さんの本は、
タイトルの「それでも世界は美しい」という言葉に
どうしようもなく惹かれて、
これは読まなくちゃと思ったんです。

小林

ありがとうございます。
このタイトルだけでは本の内容が
わかりづらいかもしれないという編集の方からの提案もあって
「原発避難の悲しみを生きて」という副題をつけたんですけど、
「それでも世界は美しい」というのは、もう実感ですね。
いまもこんなに美しいんですから。

────

今日初めて飯野と飯舘に伺いましたが、
蒼々とした自然の美しさに圧倒されました。

小林

福島って、ほんとうに美しいんです。
今回の福島第一原子力発電所の事故があって、
なおいっそう輝いて見える。
人ってそういうものですよね。
それまではあたりまえのようにそこにあって
気にも留めていなかったものの価値が、
こういう取り返しのつかない出来事が起きて初めてわかる。
逆に「汚れてしまった」というふうにしか見えなくて、
ここにはもう居られないと出て行かれる方もいます。
その気持ちもわかるんです。
本にも書いたんですけど、
飯野町に暮らしていた広島の被爆3世の友人は、
放射能の恐怖が身体に染み込んでいるんですね。
おばあちゃんが被爆されて、
体内被爆者の叔父さんが内部障碍を持っていらして、
中学生の時に学校の先生が
白血病で亡くなられたこともあるそうです。
自分のつわりがとてもひどかったことも含めて、
それらがすべて放射能による影響かどうかは
調べようがないけれど、
彼女にとってはそうとしか思えないわけです。

────

それにもかかわらず、
ご自身の頭上にまた放射能が降ってしまった。

小林

彼女には耐えられないことだったんですよね・・・・・・。
それから、私は名古屋で生まれ育ったんですが、
私のまわりにも自然を求めて福島に移住してきた
都会のエコロジストが多かったんですね。
みんな社会的な意識がとても高くて、
自然農をやったり自給自足に近い暮らしをしたりしながら
反原発運動にも積極的に参加して。
だから昨年の地震が起きた時も、
瞬間的に「原発がまずい」と判断して
その夜のうちに福島を出た人もいたし、
移住者の友人のほとんどが1週間以内には県外に出たんです。

────

放射能の知識が豊富な人は、やはり動きが早かったですね。

小林

ええ。さらに言うと、
都会から移住してきて自然農をやっている人というのは、
どこか純粋性を求める人が多いように思うんですね。
だから「汚れる」ということに耐えられない。
一方、そこで生まれ育って有機農業をやっていた人には
残ってがんばっている人がけっこういるんです。
地元の人は出ようにもほかに行くところがないし、
しがらみや愛着も含めて
その土地と強く結びついているんですよね。
それに対して移住者は身が軽い。
パッと動ける。
それはそれで悪くはないんですけど、
私は同じ移住者でありながら
なんとなく腑に落ちないところがあるというのも
正直な気持ちなんです。

────

小林さんは、県外に出よう、
名古屋に帰ろうとは思いませんでしたか。

小林

今日一緒に見ていただいたように
私の家は飯舘のなかでも森の深い場所にあるので、
ガソリンが手に入らなくなった段階で
孤立してしまったんですね。
電話も通じないし、文字どおりサバイバル状態。
だから爆発の映像を見た時は精神的に耐えられなくなって
飯野町にあるいまの職場に逃げましたし、
一瞬、名古屋に行こうかなともよぎりました。
でも、ふっと冷静になって残ったんです。

────

なにが小林さんを留まらせたのでしょう。

小林

家族同様の犬と猫がいて避難することが難しかったですし、
飯舘の我が家から離れ難かったからですが、
判断を迫られた瞬間に「私は逃げない」という
心の声が聞こえてきて残ったという感じです。
私はたまたま残ることを選択して、
同じようにここで暮らし続ける地元の人たちと共に生きている。
そうすると、福島の外の人たちが言う
「避難するのが正しい」とか
「避難すべきだ」というような意見について、
いろいろと考えてしまうんです。
「福島を救え、子どもたちを救え」といったスローガンのもとに
反原発運動などの活動をしている人のなかには、
福島に残っている私たちのことを、
核を正当化するための国家的な策略のもとに
放射能の危険性を知らされないまま放置されているのだと
決めつけるような人たちがいる。
でも、私たちは決して
なにも知らない愚かな棄民ではないんですよ。
それなりにいろいろとわかっていて、
それでもここで生きると決めている人もたくさんいる。
心の深いところで傷を負いながら、
それでも前向きに、畑をやって、田んぼをやって生きている。
日々ここで暮らしていると、
そうやって生き抜いていることがものすごく尊い、
大切なことだと感じるんです。

────

原発事故の犠牲になったという意識や怒りはありませんか。

小林

もちろん福島は犠牲者です。
人間だけではなく、あらゆる生きものが犠牲者です。
そして私たち庶民というのは
たとえばホロコーストや原爆の例をとっても、
わけのわからない時代の狂気のようなものに翻弄されて
殺されたり、避難民になったりします。
でも、じゃあ国や東京電力が私たちを救ってくれるかというと、
賠償金すらまともに出ない状況ですよね。
ましてや私たちがほんとうに傷ついたのは心です。
魂といってもいい。

飯舘でとてもお世話になっていた方のご主人が、
原発事故の1年前から肺がんを患っていらしたのですが、
昨年の秋頃にお会いした時はまだお元気だったのが、
最近はずいぶんと弱られてしまって・・・・・・。
ご主人はいま、借り上げ住宅で
最期の時間を過ごしているんですけど、
彼女が「飯舘に(夫を)連れ帰ることができなくて、
これほど放射能を恨んだことはない」とおっしゃったんです。
ほんとうに優しい女性なんですよ。
いつも他人のことばかり考えている人。
ご主人もそう。
それでもこういう目に遭わされる。
この原発の事故は生きる場所を奪ったと言われますが、
死ぬ場所まで奪ってしまったんです。
そういうお年寄りはいま、たくさんいます。
最近は「最期は病院」なんて言われますけど、
ぎりぎりまで畑をやって
天寿をまっとうするはずだった人たちが、
狭い仮設住宅に閉じ込められ、病気になり、
どんどん亡くなっているんです。
でも、その方はご主人のことで深く悲しみながらも、
仮設住宅で大変な暮らしをしている人を支援する活動をしたり、
ご主人の体調が少しでもいいと、
もうほんとうにニコニコと嬉しそうな顔を見せるんです。
死ぬ場所まで奪われながら、
それでも気丈に生きていらっしゃる。
彼女の嬉しそうな顔を見ると私も嬉しくなるし、
こういうところに光がある、救いがあると私は思うんです。
逆を言えば、組織でしかない政府や東電は、
たとえ彼らがなんらかの責任を認めて賠償金を払ったとしても
人の心や魂までは救えないんですよ。

────

組織は人の心を救えない、というのは、
小林さんが本のなかで引用されていた
水俣病の被害者である緒方正人さんも、
著書『チッソは私であった』に書いていらっしゃいますね。
水俣病の加害者であるチッソという会社には
生身の人間がたしかに存在している。
そして被害者たちが向き合いたいのも彼ら、
つまり生身の人間なのに、
さまざまな仕組みや制度が「人間として」という
肝心の主体を覆い隠してしまっていると。

小林

私は本のなかでフランクル
(『夜と霧』の著者V.E.フランクル)の言葉も
たくさん引用しましたけど、
彼も「心の救済はどこにあるのか」という、
その一点を繰り返し言ってますよね。
だから批判もされて。
ホロコーストの悲惨さやナチスの犯罪を
きちんと告発していないと。
でも生きるということは、
とんでもなく理不尽で避けがたい悲劇に見舞われるものだと
思うんです。
それに対してどんな態度をとるかというのは
ほんとうに個人の問題で、
一人ひとりがそれぞれのやり方で
問題に向き合っていかざるを得ない。
それがナチスの犯罪であろうが国家規模の事件であろうが
関係ないんです。
もちろん社会的な責任という意味においては
国や東電に必要な責任を負わせなくてはいけないけれど、
その結果として出てくるものというのはやっぱり、
お金ぐらいのものですよね。
けれど、お金では傷ついた心は救われない・・・・・・。
そんななかで、どう希望を見つけ、どう生き抜くかというのは、
今回の出来事にどう向き合う􏰀􏰀かという
一人ひとりの在り方にかかっていると思うんです。

私のなかにも「原発的なもの」がある

────

小林さんがいま、もっとも苦しく感じているのは
どんなことですか。

小林

誤解を恐れずに言うと、
東京をはじめ日本各地で行われている
反原発などのさまざまな抗議に
コミットできない自分がいるんですね。
「福島の人はもっと怒りの声を上げなきゃいけない」
と言われると、違和感を持ってしまう。
その声は一見とても正しく聞こえるけれど、
私にはどうしてもなじめないんです。
でも、その違和感をなかなかうまく言語化できないから、
デモに参加している人たちを批判したりして。
原発事故後、自分と考え方が違う人たちを、
たとえ友人であっても激しく批判してしまう自分がいて、
その度に自己嫌悪に陥り、
そのことが一番つらく苦しいですね。

────

どんな違和感なのかを少し言葉にしていただけますか。

小林

たとえば、東京では官邸前に
何万という人が集まっていますよね。
もちろん世界的に見ればデモや抗議活動によって
社会が変わった例もあるかもしれません。
「アラブの春」や、もっと前には
「プラハのビロード革命」もありました。
たしかに、目に映るのは大規模な行進だったり
シュプレヒコールだったりするわけですけど、
実際に社会を変えたのは、人々の願いや思いが
ある臨界点に達したからだと思うんです。
もちろん、その臨界点の表現方法の一つが
デモや抗議活動であることは、
私も否定はしないです。
ただ、そこで掲げられ、叫ばれるスローガンが、
昨年は「福島の子どもを救え」で、
大飯原発の再稼働の時は「大飯町を救え」だったでしょう?
そういうのがどうもなじまないんです。

────

「救え」という言葉に違和感があると。

小林

「福島の子どもを救わなくちゃならない」という
思いそのものは善意です。
でも立場が変わると、善意が暴力に変わる場合もあるわけです。
福島にはいまもたくさんの子どもたちが暮らしています。
妊婦さんもいる。
さっきも言いましたけど、
みんないろいろなことをわかったうえで
ここで暮らしています。
ここで暮らそうと決心するまでには
ものすごい葛藤があっただろうし、
いま現在も葛藤を抱えながら暮らしている人もたくさんいます。
そういう人たちにとっては、
たとえ善意からの警告であっても、
自分の選択を否定されているような気持ちに
なったりもするんですよ。
私には子どもはいませんが、
「ここで暮らし続けたらこうなるんだよ」と
障碍を持ったチェルノブイリの子どもたちの写真を見せられ、
説得されるというのは、
とてもつらいこと だろうと思うんですよね・・・・・・。
「子どもたちを救え、福島を救え」というのは
善意や親切心から出ている言葉だと思いますが、
人はそう簡単に他人を救えないんです。
だけれど、人は人にしか救えないし、救われない。
私は彰夫さんをうしなって、
これ以上ないというほどの孤独を味わって、
そのことを心の底から実感したんです。

────

誰かを救うとはどういうことなのか
改めて考えさせられますね。

小林

ただ、そういった違和感の一方で、
私自身のなかにも葛藤があるんです。
緒方さんが本のなかで
「私もまたチッソだった」とおっしゃっているように、
私のなかにも原発的なものがあると思うんですね。
あんな大事故が起きたにもかかわらず大飯原発を再稼働したり、
懸念だらけのオスプレイを簡単に導入してしまったり、
はっきり言って狂気の世界じゃないですか。
さらに言うと、
日本にはすでに50以上もの原発が林立していて、
世界中には何万発もの核爆弾が存在している。
そういう世界に私たちは生きているわけですよね。
まさに狂気のただなかに。
じゃあ自分はそんな社会や狂気と無縁なのかといったら、
私自身も社会の一部であり、
私のなかにも狂気の片鱗が宿っているわけです。
もし私がナチスの時代にドイツ人として生まれていたら、
自分の命を賭けてユダヤ人の友を守れただろうか?
私はどうしても、そんなふうに考えてしまうんです。

────

「原発的なもの」というのはつまり、
人間のエゴイスティックな部分のことですね?

小林

そうかもしれません。
原発のことで言えば、
バブルの時代は私も名古屋で暮らしながら、
浜岡原発で作られる電􏰀􏰀気を湯水のように使って
楽しく暮らしていたわけです。
にもかかわらず、大飯原発が再稼働すると決まった時に
ある町民の方が「やむを得ない」と言っているのを聞いて
腹を立てた。
「やむを得ない」と言ってしまうから
原発はいつまでも止まらないし、
環境破壊も起こるし、
戦争だってなくならないんだと。
でもそれは結局、
都会のエコロジストの感覚なんだと思ったんです。

────

どういう意味でしょうか。

小林

少し前に飯舘の家に帰った時、
近所の方から「除草剤を撒いておいたよ」と
声をかけられたんですね。
それを聞いて私、ふっと気が遠くなってしまったんです。
私は田んぼも畑もすべてを無農薬でやっていて、
一切薬を使っていないんですよ。
それが美しいことだと思ってきましたから。
でも近所の方は家のまわりが荒れてしまって大変だろうと、
親切でやってくれたわけです。
その時はまだ撒いてすぐだったので
草は枯れていなかったんですけど、
2週間後に行ったらそれはもう見事に枯れていて・・・・・・。

────

先ほど拝見しましたが、たしかに驚くほど枯れていましたね。

小林

でしょう?
言葉を失うくらいにきれいに枯れていて、
私、道を歩けなかったんです。
気持ちが悪くなっちゃって。
草まみれの田んぼに入っていって、
田んぼのなかを歩きまわって、
たくさんの糸トンボに囲まれたりしているうちに
気持ちが鎮まったんですけど、
やっぱりものすごくショックだったんですよ。
すでに放射能に汚染されているんだから同じじゃないかと
考える人もいるかもしれないけれども、
さらに、急性毒性という点ではもっと危険な除草剤で
大切な我が家が汚染されてしまったのですから。
でも、そのことをある方に話したら、
「田舎の人にとって除草剤はミラクルの薬なんだよ」って。
その昔、田畑の草を刈るというのは凄まじい重労働で、
誰もが、自分たちの子や孫には絶対にさせたくない、
こんな大変なことをやらせるくらいなら
都会でもっと楽に暮らしてほしいと願っていたのだと。
そんな状況を解決してくれたのが除草剤 なんですよね。
だから地元の人のなかには、
私のような都会のエコロジストが頭のなかだけで考えている
「除草剤は毒である」という意識を持っていない人が
たくさんいるんです。
私は名古屋の中流家庭で生まれ育って、
そういう苛酷な労働も貧困も出稼ぎもなにも知りません。
大飯原発の再稼働を「やむを得ない」と言った地元の人を
批判してしまったけれど、
たぶん大飯町も、大熊町や双葉町のように
原発によって救われた部分も大きいと思うんですよ。

────

経済的に。

小林

そうです。
そういう地元の苦労を知らず、
都会の理屈だけで除草剤を批判する、地元の声を批判する、
「そういう考えだから世界は変わらないんだ」と
言いつのるというのは、
田舎に平気で原発を押しつける発想と
変わらないんじゃないか・・・・・・。
そう思い至ってハッとしたし、同時に、
原発をやむを得ないと容認する地元の人たちも
除草剤を撒く村の人たちも
都会で豊かな暮らしを享受している私たちもみんな、
お金による豊かさと、便利で簡単であることをひたすら追及する
近代合理主義にどっぷり浸かっている。
私たちは被害者であると同時に、
知らず知らずのうちに加害者になってしまっているんです。
だからそうやって考えていくと、
この状況に対してなにかしたい、なにか言いたい、
政府や東電を糾弾してなんとか責任をとらせたいという気持ちも
わからなくはない一方で、
自分の外側にある「悪」をやっつけるようなやり方だけでは、
根本的にはなにも解決しないんじゃないかと
思ってしまうんですよ。
東電にも心ある人はいて、そういう人たちは
とても苦しんだり悲しんだりしているだろうし・・・・・・。
かといって私自身もどうしていいのかわからなくて、
なにをしたらいいんだろうという迷いもある。
私だって避難者だし、お金も必要です。
でも、愛に生きたい。
怒りで人生を終えるのでなく。
試されていると感じてます。

────

そんななかで、小林さんの支えになっているものはなんですか。

小林

昨年の3月11日以降に知り合った人たちとの交流も
支えになっていますし、
職場がすごく楽しい。
職場でも時々はこういった深刻な話もしますけど、
たいていは笑い合っているので、すごく救われますね。
あとは飯舘に帰って自然のなかに身を置くと
すべてを忘れられるんですよ。
ああ、私はやっぱりこの人たちと生きていきたいんだと思えて。

────

この人たちというのは?

小林

草や花や鳥や虫・・・・・・人間以外の生きもののことです(笑)。

飯舘の深い自然に救われた

────

飯舘には今日初めてうかがいました。
飯舘はほとんどが居住制限地域で、
一部が帰宅困難地域ですよね。
小林さんの家は福島市から車で約1時間。
居住制限地域内にあって、
放射線量は家の前で毎時5〜6マイクロ・シーベルトでした。

小林

昨年の夏は8マイクロ・シーベルトくらいあったんです。
少し下がりましたね。

────

それでも3.11以降に私たちが仕入れた知識に照らし合わせると
やはり高い。
ただ誤解を恐れずに言うと、
小林さんの家にいるあいだ私はとても心地よかったんです。
蒼々とした深い森のなかで鳥や虫たちの声を聴き、
草を踏みしめ、風に身を預けているうちに、
数多の情報によって染みついた放射能に対する恐怖が
ひととき飛んでしまったんですね。
津波や地震とはまた別の意味での
大自然の圧倒的な力を感じました。
これこそが真の「自然エネルギー」なのではと思うほどに。

小林

わかります。
自然は今も変わらずそこにあって、光り輝いているんですよ。
飯舘の特徴は原野がまだ残されていることと、空が広いこと。
そして星がとても美しい。
いまはみんな田んぼに手を入れていないから
荒れ果てているけど、
そんな状況であっても、
私にとっては天国のように美しいところです。

────

ヴィム・ヴェンダース監督もここを訪れて、
天国のような場所だとおっしゃったんですよね。
けれど、ガイガーカウンターが示す数値はその逆。
映像作家として自分の五感を信じたいのに
どうすればよいのか戸惑うと。
その気持ちは、私も実際に訪れてみてわかりました。
小林さんにとって、あそこはどんな場所なんですか。

小林

私は若い頃から精神的な苦労を抱え込むことが多くて、
結婚も諦めかけていたんですね。
それが39歳になってやっと結婚できることになって、
ほんとうに嬉しかった。
都会のいろいろな息苦しさからも解放されて、
ようやく自由になれた場所が飯舘だったんです。
彰夫さんと一緒の3年間は夢みたいに幸せでした。
田んぼをやって、畑をやって、雨上がりには大きな虹が出るし、
夜になると星がとてもきれい。
彰夫さんと一緒に何度も流れ星を見ましたよ。
ほんとうに幸せだった。
それがある日、突然、奪われてしまって・・・・・・。

────

彰夫さんを病気でうしなわれたのですよね。

小林

彼を家で看取ったのですが、
その瞬間に魂が身体から離れて
あの場所に宿ったように感じました。
だから飯舘にいた時はずっと
彼の魂と会話しながら暮らしてました。
寂しくて気が狂いそうだった。
彼のところに行きたいということしか考えられなくて、
地を這うように毎日毎日、森の中を歩き回って・・・・・・。
なんだかんだと友だちも来てくれましたけど、
基本的には深い森にたったひとり。
あまりの悲しみで金縛り状態のようになっていたから、
名古屋に帰ることも、自分から救いを求めることもできず、
ほんとうに孤独でした。
でも結果的には、そのことによって救われたんです。
人が心底苦しい時は、
ある種の厳しさに身を置くことが救いにつながる場合も
あるんですよね。
孤立は心をダメにするけれど、
孤独というのはとても重要だと思うんです。
だって、最愛の人をうしなった苦しみは
家族でも理解できないものだし、
ましてや何年で立ち直れるかなんて本人にもわからない。
でも人々のなかにいると、どうしても
「1年経ったからそろそろ・・・・・・」というような言葉にも
出会ってしまう。
もちろん人は親切な気持ちからそう言うわけですけど、
言われるほうは余計に苦しくなったりもして・・・・・・。
だから森の中を毎日、
犬と猫とひたすら歩きまわって過ごした日々に
私はほんとうに救われました。
森のエネルギーというか、精霊というか、
そういうものがすごく助けてくれたなあと思うんです。
たった4年間かもしれないけど、
ひとりで生きたことで、
自分があの森の一部という感覚がものすごくあるんですよね。
分かちがたいです。

────

いまでも飯舘を訪れると同じような気持ちになりますか。

小林

なります。
行くとほっとします。
あそこは自然は自然でも、森の深さが違うんですよ。
暮らしていた人はみんな言ってます。
できることなら帰りたいって。
私も帰りたい。
でも、際 に見てもらってわかったと思いますけど、
あそこでひとりで生きるのはほんとうに厳しいんですよ。

────

いつか居住制限が解除されたとしても、
戻らない人が多ければ
孤独を通り越して孤立してしまいますものね。

小林

だからほんとうに悲しいけど、
もうあそこでは暮らせないんだと1年かけて諦めたんです。
彰夫さんの家や、
一生懸命に面倒を見ていた田んぼや畑が
どんどん自然に浸食されてダメになっていくのを見るのは
すごくつらい。
でも、彼はその瞬間瞬間を心から楽しんでやっていたのだから、
それでいいじゃない・・・・・・って。
この土地は自然に還そう、それでいいんだって
いつか思える日が来ることを願ってます。
ただ、ブルーベリーの鉢だけは
今の避難先の家に持ってきたんですよ。
彰夫さんが苗で買って、ポットに移し替えて、
彰夫さんが亡くなったあとは
私が丹精こめて育てたものなんですね。
地植えしたものは草の海に埋もれ、
鉢で残してあったものもひっくり返ったりして
大半はダメになっちゃったんですけど、
思い入れのある木なので、
残っていたものは飯野に持ってきて育ててるんです。
実も食べてますよ。
あんなに放っておいたにもかかわらず生きていてくれて、
しかも実までつけてくれたと思うと、
嬉しくて可愛くて、食べてあげようと思うんですよね。

────

内部被曝への不安はありませんか。

小林

これはあくまで私の個人的な気持ちですけど、
せっかく実ってくれたものを食べずに、
それが腐って落ちていくことに耐えられないんです。
その姿を毎日見続けるより食べることを選ぶほうが
心も体も喜ぶのがわかるんです。
10年後か20年後、あるいはもっと早く
病気になるかもしれないという意見があるのもわかってます。
でも何年後かに病気になるかもしれないからといって、
そのためにいま現在の大切なものや
失いたくないものを捨ててしまうことのほうが
私には苦しい。
もしかしたら明日、交通事故で死ぬかもわからないし、
彰夫さんのように放射能とは関係なく病気になるかもしれない。
なにが起こるかわからない人生で
先のことを憂いていまを抑え込んでしまうことが
私にはどうしてもできないんですよね。

────

放射能の危険性については、どんなふうに考えていますか。

小林

危険性については専門家ではないのでわかりません。
ただ、放射能からはもう逃れられないだろうとは思ってます。

────

それは、遠くに逃げる逃げない、
放射性物質が含まれたものを食べる食べないといった
物理的な意味合いではないですね。

小林

そういう意味合いではないです。
ただ、誤解のないようにお伝えすると、
放射能に恐怖を感じている人は
できるだけ恐怖を感じないで済む場所に逃げたほうがいいし、
食べものにも気をつけたほうがいいです。
私が暮らしている避難先のまわりもおそらく
1マイクロ・シーベルト程度はあると思うんですけど、
もし怖いと感じたらすぐに逃げようと思ってます。
人の心は恐怖によってやられるものですから。
そして恐怖や不安から避難した人たちは
後ろめたさを感じることなく、
その場所でちゃんと生きていってほしいと思うんですね。
それと同時に、より汚染度の高い飯舘の帰宅困難地域でも、
人間以外の生きものたちは3月11日以前と同じように
生きているわけです。
放射能と共に。
同じ空気を吸い、同じ水を飲んでいるほかの命が
放射能にさらされているのに、
私たち人間だけが無事でいられるわけがないとも思うんですよ。

────

生態系はつながっている、という意味ですか。

小林

生態系というより、
もっと深い部分でつながっていると思うんです。

────

先日『地球交響曲』の龍村仁監督に
お話をうかがったんですが、
もっと深い部分でのつながりというのは、
ジェームズ・ラブロック博士の
ガイア理論のようなことでしょうか。

小林

近い感覚かもしれません。
私には、地球上で生きているものは
鳥も虫も人間も一つの同じ命であるという感覚があるんです。
鳥や虫たちはいまも飯舘のあの家のまわりで、
なんの防御もせずに生きている。
放射能は人間がばらまいたものであるにもかかわらず、
人間だけが少しでも安全なところに行こう、
生き延びようとしていることが、どうにも気持ちが悪いんです。
危険はできるだけ避けるべきだという理屈はわかるんですよ。
でも、その避けていく過程のなかで失っていくものも
いっぱいあるというか。
これまで私たちが築いてきた現代文明って、
その繰り返しだったよねと􏰀􏰀思うんです。
臭いもの、まずいものにフタをして、
人間だけは大丈夫というエゴイズムのなかで
ほかの多くの生きものを蹂躙し、傷つけ、
人間にとって都合が悪くなったり要らなくなったりしたら
ポイと捨てて・・・・・・。
一方で、ミミズは何万ベクレルも被曝させられ、
それをイノシシが食べ、
植物はセシウムを吸い上げて、
ある意味、身を投げ出してこの世界を浄化していますよね。
そのなかでは進化も起これば淘汰も起きる。
その摂理から人間だけが逃れられるとは私には思えないし、
だからこそ、ほかの生きものたちを尊重する、
さらに言えば彼らと連帯していくような生き方にこそ
希望や平和があると思うんです。

────

経済面においてはすでに、椅子取りゲームのような
激しい競争や格差が起きているわけですが、
これ以上、水や空気や土壌が汚染されるようなことになれば
食料や生きる場所の奪い合いが起きるでしょうし、
世界規模で見ればもう起きている。
日本でも、それこそ原子力発電所の事故が再び起きれば、
一瞬のうちにそうなってしまうでしょう。
そんな事態を避けるためにも、
私たちは早急に生き方を見直さなくてはならない。
そう思います。

小林

そのためにも危険から逃げるだけじゃなく、
自分たちが負った傷を
きちんと見つめる必要があると思うんです。
私たちはこの時代の狂気の一部だけれど、反面、
それとは無縁の自然の一部でもある。
ということは、狂気の側で生きることをやめて、
これほど汚染された世界のなかで
なおも美しく生きている生きものたちや自然と共に生きる道を
選ぶこともできると思うんです。
でもそのためにはまず、
自分もこの狂気の一部なんだという気づきを得ていくことが、
私はとても大切だと思うんです。

絶望と向き合う勇気が、生きる希望を生む

────

小林さんはいま、飯野町のヘルパーステーションで
働いていらっしゃるんですよね。

小林

そうです。
知り合いが経営しているところで、
震災の1年くらい前から働いてます。
働いているといっても
精神的なリハビリのつもりで通い始めたところなので、
お給料はそんなにいただいていません。
でも、みんなで一緒にごはんを作って食べたり、
ささやかなことで笑い合ったり、
とても救われてますね。

────

経済的にはいかがですか。

小林

いまは東電から月に10万円の賠償金が支払われているので、
それで補填している部分もあります。
私はもともと彰夫さんが亡くなって以降
経済的には決していい状態ではなかったので、
これで充分だと思うことにしています。

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賠償金は被災した人たちが生活をつないでいくために
非常に重要なものですが、
労働意欲の喪失につながったりと
精神的な難しい問題も起きていますね。

小林

被災者は賠償されて当然だし、
賠償金としては決して多い金額ではないんです。
ただ、お金というのはやっぱり怖ろしくて。
ひとりにつき10万円、
4人家族となると、40万円。
飯舘はもともと現金収入の少ない家庭が多いので、
いきなり月に40万円も入るようになると
やっぱり精神的なバランスが崩れてしまうんですよ。

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東京でもなかなか稼げない金額です。

小林

そう、都会でも稼げない金額なんです。
飯舘での生活というのは、
経済的に豊かではないけれど、
山菜を採ったり野菜を作って自給自足的に暮らしたりという
本物の豊かさがあったんですね。
それが原発の事故によって本物の豊かさが奪われ、
代わりに、お金の豊かさを与えられてしまった。
精神的にも身体的にも、いろいろな病気が増えてます。
それまでは毎日、田畑で仕事をして
山菜や野菜を食べて健康的に暮らしていたのが、
身体を動かすことがなくなり、
食事を作ろうという気力も出ず、
できあいのもので済ましてしまう。
賠償はもちろん大事です。
でも、ほんとうに難しいです。

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誰かに必要とされているとか、
やらねばならない仕事があるという「生きがい」は
お金では決して補うことのできないものですね。

小林

生きがいを失うというのは、ものすごくつらいことですよ。
それでも、こればかりは各々が自分で気づいて
悪循環から抜けていくしかないんですよね。
お金の危うさに気がついて、
働くモチベーションを取り戻していく・・・・・・。
私のまわりには、なんとか気持ちを維持していこうと
懸命に努力してる人も多いです。

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そういった日々の生きがいといったものから
真の豊かさとはなにかという、
より大きな視点を必要とする事柄にいたるまで、
価値観を変える必要性を感じている人は
増えてきているように思います。
ただ、その意識を日常生活にどう反映させたらいいのかが
難しい。

小林

私たちは大転換機を迎えていると思います。
ある意味、大きな転換を果たすために
これだけの難題が降ってきているようにも思うんですね。
だって私のようなごくふつうの人間までが
物事についてここまで深く考えさせられているんですから。
私の場合はその前の4年間も
彰夫さんの死と向き合っていましたから、
生きるということについて
より深く考えられたところがあるかもしれません。
だから今は絶望的である反面、
ものすごく大きなチャンスの時期でもあると思うんです。

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絶望とチャンスが共存している・・・・・・
もう少し話していただけますか。

小林

いまも時々、飯舘の家に帰っているんですけど、
あそこにいると幸せな気持ちになる反面で、
このままここに溶け込んで、
いなくなってしまいたいとも思うんですね。
もう人間の世界はいやだ、私には関係ない、
このままこの大自然に溶けてしまいたいって。
結局は一緒に暮らしている犬や猫の顔を思い出して
生きることを続けるわけですけど、
これは絶望感と言っていいものだと思います。
その一方で、私は今回のことが起きてから
ほんとうにいろいろな出会いを経験しているんですね。
自分から積極的にそうしているわけでもないのに、
大好きなヴィム・ヴェンダース監督に会えてしまったり、
本まで出すことになってしまった。
私のようにわかりやすい形ではなくても、
今回のことをきっかけに
それまでとは違う人の流れやエネルギーの流れを感じている人は
少なくないように思うんです。
私は特定の宗教を持っていませんが、
もし神様とか天使とかいうものが存在していて、
この世が目に見えない者たちに守られているのだとしたら、
いままさに彼らが結集して
この世界を救おうとしているんじゃないかって、
そんなふうにも思えてしまうんですよ。
ただ、その救われていく過程では
私たち人間からすると残酷としか思えないことも
起きるかもしれない。
今回の震災や津波、原発事故のように、
たくさんの人たちが悲劇に巻き込まれ、
翻弄されてしまうかもしれないとも思います。
光と闇が交錯する時期というか・・・・・・。
だからこそ闇のなかに一筋の光を見つけたい。
絶望的になりながらも、
なんとか光を見つけようともがいているんです。

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先ほど話に出たフランクルも、
まさにホロコーストという絶望のなかで
光を見つけたひとりですね。

小林

ホロコーストの時も、
高圧電流が流れている強制収容所の鉄線に飛び込んで死んだ人、
苛酷な状況下で病に倒れた人、殺された人・・・・・・
ほんとうにたくさんの人が命を落としましたよね。
そのなかには、絶望のなかで亡くなった人もいれば、
少ないながらも光を見いだして亡くなっていった人も
いると聞きます。
東京や私の故郷である名古屋は
すでに狂騒的な明るさを取り戻しているのかもしれないけれど、
福島で暮らしている私たちは、
いまも光を見つけようと必死にもがいてます。
がけっぷちのギリギリのところで一筋の光を見つめながら、
落ちていかないよう手を取り合って、
連なって生きていこうとしているんです。
そんな時に必要なのは、哀れみや同情じゃないんですよ。
そうではなくて、
小さな希望を見つけて生きていこうとしている私たちの在り方と
共にあってほしい。
そしてそういう在り方こそが、
狂騒的に見えても実は危機的な気持ちを抱えている
福島以外の人たちにも必要なんじゃないかと、
私は思うんですよね。

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東京で暮らしている私の友人たちにも、
3.11以降ずっと不安定な気持ちを抱えている人は
少なくありません。
物理的なことから来る不安は
福島の人たちに比べればずっと小さなものですが、
3.11からしばらくのあいだ続いた恐怖や緊張感といったものを
みんなまだ覚えていますし、
意識的には日常を取り戻したように見えても、
明日世界が一変するかもしれないことを知ってしまった衝撃は
誰の心にも傷跡のように残っているんじゃないでしょうか。
私自身も3.11以前にはもう戻れないと思っています。

小林

みんな、ほんとうは大なり小なり
絶望していると思うんですよね。
絶望していて、悲しみのなかにいる。
私は、まずは悲しみや不安や苦しみから簡単に逃れようとせず、
そういう感情が自分のなかにあるんだと認める勇気、
そして、その感情のなかに降りていく勇気が
必要だと思うんです。

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絶望のなかに降りていく、
つまり絶望的な現実と対峙するというのは
非常に強い精神力が求められますよね。
これはあくまで私個人の感覚ですが、
絶望するというのは文字どおり、
それまで持っていた望みが絶たれ、
既存の価値観が根こそぎ崩れるということで、
そのハードな心的状態に立ち向かえる人は
そう多くないと思います。
深く落ち込みながらも、心を鈍化させたり、
大なり小なり現実のなにかに目をつぶったりすることで
日々をつないでいる人が大半なのではと思うんです。

小林

自分を守ろうとする機能が
どうしても働いてしまうんですよね。
そして個人的には、
その機能が働きやすい人のほうが
恐怖心が強いんじゃないかと思います。
だから実は、あれが危ない、これが危ないという
恐怖を煽るようなアプローチは、
あまり効き目がないんですよ。
怖い話なんてほんとうは誰も聞きたくないですから、
みんなの心がどんどん逃げていくだけだと思うんです。

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ただ、一方では小林さんのように
積極的に絶望と向き合おうとしている人もいて、
絶え間ない葛藤や苦しみのなかに身を置きながら
もがいています。
大きく変わろうとうごめいている時代のエネルギーと
同調しているとも言える。
そういう人が絶望のなかで一縷の希望を見いだすには
どうしたらいいのでしょう。

小林

私、ある方に「麻里さんは絶望できる強さがある」と
言われたことがあるんですね。
最初はピンと来なかったんですよ。
彰夫さんが亡くなってからは特に、いつも倒れそうで、
どうすれば壊れずに生きていけるかと
そればかり考えてましたから。
時々はなにか目に見えないものに
支えられている感覚を持つこともありますけど、
いまも毎朝、胃が痛くなって目が覚めたり、
気を強く持たなければと、
なんとか倒れないように自分を保って生きているんです。
なにか役割があって生かされているのかもしれないと
信じながら・・・・・・。
このインタビューを読んでくださる人のなかにも、
なにかをしたいのになにもできない自分や、
デモなどの抗議活動にコミットできない自分を責めたり、
原発が再稼働されたり建設されたりすることに
絶望感をおぼえる人もたくさんいると思うんですけど、
私は、そういう人たちはなにもしていないわけではないと
思うんです。
悲しんだり絶望したり、
心の深いところに降りていくというのは、
これまでとは違う新しい一歩を踏むために
ほんとうに大事なことなんですよ。
もし、ひとりで苦しむのはつらすぎるとか、
なにかちょっと動いてみたいと思ったら、
たとえば福島に来てみるのもいいと思うんです。
その気持ちを誰かとシェアしてみる。
私はそういう人たちと連帯したいんです。
津波の被害で地獄の苦しみを味わいながら生き抜いている人も
たくさんいますよね。
そういう人たちと深いところでつながっていきたいんです。

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主義や主張ではなく、
恐怖や怒りから発せられた感情論でもなく、
心の深くで共感し、共に生きる。
小林さんがかつて絶望のなかで
飯舘の木々や虫や鳥たちつながり合ったように・・・・・・ですね。

小林

そう受け取ってもらっていいと思います。
そんなふうに生きていくことだけが、
絶望や狂気で混沌とした世界のなかで、
共に助け合いながら、光のほうへ、
希望のほうへと向かっていける唯一の道のように、
私には思えるんです。