寳玉義彦(ほうぎょく・よしひこ)

詩人。
福島県原町市(現南相馬市)生まれ。
17歳より詩作とポエトリー・リーディングを始める。
2009年、ジャズ・ミュージシャンとのリーディング・セッションを始め、
関東や東北の各地でライブ活動を行っている。
2011年、東日本大震災と東京電力福島第一原子力発電所の事故を受け、
東京と南相馬を往復する生活に入る。
2015年8月、処女詩集『Picnic』(思潮社)を出版。






























「どんな世界であれ、
『たった今生きている』という、それがすべて」

───寳玉義彦 

2012年2月26日インタビュー:
津田大介の「メディアの現場」2012.8.8.+8.15.(vol.42)掲載より──


寳玉義彦さんに初めてお会いしたのは、
原発事故や放射能問題について語り合う、あるイベント会場でした。
福島県の南相馬で生まれ育ち、
先祖から受け継いできた田畑で農業を営むかたわら、
『詩の礫』でも知られる和合亮一氏を師に持つ詩人として
言葉を紡いできた寳玉さんは、
参加者たちの前で、少し緊張した面持ちで
農業者としての苦悩を語っていました。
その話を聞きながら私はふと、
詩人としての彼の言葉を聞きたいと思ったのです。
福島第一原子力発電所から19km。
農業者にとって文字どおり身体の一部である土地を放射能によって奪われ、
我が家に帰ることもままならない胸の内を、
そして「3.11」によって大きく揺さぶられた世の中を、
詩人はどんな眼差しで見つめ、感じているのだろうか・・・・・・と。

*このインタビューを一般公開するにあたり、
 インタビューから1年後、寳玉さんにふたたび近況をうかがいました。
 本インタビューに続けて掲載していますので
 そちらもあわせてご一読ください。



────

寳玉さんの生業は農業ですよね。
若い頃から、ご実家を継ごうと決めていたんですか。

寳玉

そうですね。
わりと受け身的な感じではありましたけど。
農だけでなく、ほかにもなにかやらなきゃとは
感じていたんですが、
生活をやりくりすることのほうがどうしても先に立って。
ただ、高校時代から「詩を書く」ということが
ひとつあったから、
それがなにかの翼になっていたところはあるでしょうね。
詩を書くことは私の根っこでもあるし。

────

飲食業にも携わっていたとうかがっています。

寳玉

串焼レストランで接客の仕事を手伝ってました。
農業というひとつの業界の中でやっていると、
ほかの世界との接点をどう設けていいのかが
なかなかわからない。
もちろん農業者はその世界のなかで
それぞれがんばってるんだけど、
私の場合は自分をもっと鍛える意味でも
ほかの世界に飛び込んでみたいという気持ちがあったので、
自分が惚れ込んでいた行きつけのお店で
仕事をさせてもらってたんです。
28歳の時からやり始めたので、6年ですね。
農業は黙々とやり、夜は接客で話をしたりと、
すごくいいバランスだったと思います。

────

空いている時間に詩を書いて。

寳玉

そうです。

────

田畑ではなにを作っていたんですか。

寳玉

やはり稲作が主体で、
しいたけやかぼちゃなんかも作ってました。
珍しいところではパッションフルーツも作ってたんですよ。
お金にはならなかったけど、
パッションフルーツのおかげですごく外交ができたし、
面白かったですね。

────

福島でもパッションフルーツが育つんですね。

寳玉

あれは熱帯性高山植物なので、
一般でイメージされているほど
熱帯っぽいところでなくてもいいんです。
むしろ、あまり湿度の高くないところのほうがいい。
熱帯でも清涼なところを好むので。
高温多湿でないおかげで病虫害も出ないし、
品質面では東北で育てたほうが有利なんです。
かといってあまり寒いと枯れちゃうので、
南相馬あたりがすごくいいラインだったんですよ。

────

そういった暮らしのなかで、
寳玉さんが地元への愛着を自覚するようになったのは
いつごろですか。

寳玉

30歳を過ぎて、
ここでなにかをやろうと本格的に思い始めてからですね。
それまでは、ひとりっ子の長男だし、
農業をやってますから、
どこにも行きようがないという諦観のほうが強かったんです。
でも、詩を書きながら見てきたこともあって、
南相馬・・・・・・私は原町と言ってますが、
そこを自分の身体のように感じられるようになりました。
家族の􏰀死に3度立ち会ううちに、
土から生まれて土に還るということを
あたりまえのこととして感じられるようになった。
でもいっぽうでは、やはり人間である以上、
そういう原理にどこか反しないと
経済活動を成り立たせることができない。
さらに私の場合は、その土地で生きていながら
自分は異物なんじゃないかという気持ちがすごくあった。
農業をやりながら詩を書くなんて、
まさしく素晴らしいんじゃないかと思われるけど、
それは生易しいものじゃないですね。

────

どういうことか、もう少し教えていただけますか。

寳玉

それがつまり、生きるということなんだと思います。
カミュが「希望とは一般に信じられていることとは反対で、
あきらめにも等しいものである。
そして生きることは、あきらめないことである」
と言ってますよね。
あれとすごく似ている気がする。
ここでいう「あきらめ」という言葉に私は、
経済活動のようなものを放棄して
自然のサイクルのなかに戻っていくような生活を
イメージするんだけど、
でもやっぱり、なかなかそういうふうには生きていけない
哀しさというかね。
それが人間の性(さが)というか。

────

農に携わっていても、
「自然のサイクルのなかに戻る」ことは
そう簡単ではないと。

寳玉

農業にもいろいろな規模があって、
自分たちで食べるぶんを作るような
小規模でやってらっしゃるお年寄りなどは、
そういう自然と一体になるような域に
入ってきているように見えるし、
かなりのプロフェッショナルでやっている人にも、
自然のサイクルのなかで生きている方は
いらっしゃると思います。
でも、並みの農業者では
なかなかそういうところには行き着けないかもしれない。
農に関する技術とか、
仕事への意欲をどのくらい持っているかによっても違うし、
経済活動をどのレベルで維持したいかという欲もある。
日々食べていける分が稼げればなんとかやれるという
昔ながらの百姓と、
現代の経済活動の一端に生きる農業者との間には、
やはり隔たりがあるんじゃないかと思いますね。

────

さらに寳玉さんの場合は物事の本質を突き詰めて、
それらを言葉に置き換えていく詩人でもある。
詩を書く行為自体が
自然のサイクルのなかに戻ることに逆らうもの、
つまりご自身を異物だと感じる由縁であり、
「農業をやりながら詩を書くのは生易しいことじゃない」
ということにつながるのでしょうか。

寳玉

そうです。
基本的に詩人というのは
言わなくていいことを言う職業ですから。
当然、自然のサイクルとは逆行するわけです。
だから面倒だし厄介だし。
でも必要なものだと思う。
未来に向かう人間生活のなかで
なにか叡智のようなものを積み上げていけるのであれば、
そこに差し入れる一枚の板になって、その礎になるのが
詩人の仕事じゃないかと思うんです。

────

ただ、現在の日本人が置かれている状況は、
叡智よりも経済を積み上げることに懸命になり過ぎた
結果とも言えますね。

寳玉

きらびやかだったり華やかなものを生み出す
人間の情念みたいなものがすべて嘘ばかりかというと、
たとえば産業にしても芸術にしても、
そうではないだろうと思うんです。
まず初めには、
なにかしら純粋さがあったはずだと思うんですね。
そこに惹かれるから
みんなお金を払ってそれを手に入れようとするんだけど、
その行く先はどこかで
破滅と結びついているようにも感じられる。

────

破滅と結びついた、
その最たるものの具体例が原子力の利用、
そして原発なのかもしれません。
原発については元々どう思っていましたか。

寳玉

やっぱり、なんとも思っていなかったんだと思います。
漠然と安全を祈る程度で。
嫌だなあとは思っていたけど、
強固に反対するということもなかった。
なにかアクションをしたこともなかったですね。
というのも、
父が長く保守系の市議会議員だったこともあって、
子どもの頃から政治にまつわる風景を見て育ってきたんですが、
反原発運動のようなものがどこかで
一定のイデオロギーと結びついている場面を
よく目にしてきました。
闘うことで自分を鼓舞するような雰囲気に
欺瞞を感じずにはいられなかった。
できれば近づきたくないなあという気持ちがあって。
ただ、その陰では、父親がやってきたことに対する
整合性を探すことによって、
自分を守りたい気持ちもあったと思うんですよね。
それはずる賢い気持ちです。
立場は常に二分されるものだと思っていたけど、
本当はもっと細分化しているんだということを知ったのは
つい最近です。
でも、なにもしないいっぽうで、
どこかで終末を意識しているようなところは
なかったといえば嘘になる。

────

終末というのは?

寳玉

それは単なる観念ですけどね。
平和な暮らしの一方で破局を意識するとき、ありませんか?
東電福島第一の隣に展望台があるんですよ。
水平線が円く見えるところでね。
でも私はそこに立つと
廃墟になった原発の幻影が見えて仕方なかった。
もしそういう日が来たら終わりだろうから、
そのときはいっそこの丘に立って一部始終を見てやろうなんて
甘ったれたことを想像していましたね。

────

それを言葉としてすくい上げるところまでは
していなかったけれども。

寳玉

していなかった。
そういうことを詩人として発信なさっていた方も
いたんだけれど、
どちらかというと、
アンチメジャーで社会性に寄った詩に対して
私はあまりいい感情を抱いてなかったんです。
でもこうやってことが起こってみると、
それはすごく先見的なものにも思えますね。
もちろん、その詩が詩として成立しているかどうか
検証しなければいけないんだけれども。
今は落ち込んでいるから
私の詩のなかの社会性の不足感を指摘されると
ウッ、となる気はする。
でも、それが詩として良いかどうかは別問題。
メジャーもアンチメジャーも、
ひとつの詩の前には関係ない。
詩は唯我独尊で書かないとダメです。
ひとつ思うのはね、
事故を起こす以前に「原発」という言葉は
詩の言葉において意味が重かったと思うんですよ。
それがいまとなっては、
「りんご」や「コップ」や「愛」といった言葉と同じように
たくさんの人が使うようになった。
それは、ある一面で健全なのかもしれないけれど、
ちょっと恐ろしい気もしますね。

東京での生活と、強まる孤立感

────

詩や言葉についてはまた後ほどおうかがいするとして
震災以降の寳玉さんの暮らしについて教えてください。
2011年の3月11日は、
お父様と二人暮らしの南相馬の自宅で地震に遭い、
津波から逃れて集会所に避難し、その後、
津波被害の大きかった近隣行政区で
放射能と余震に戦々恐々としながら行方不明者を捜索。
南相馬市の災害対策本部がまったく機能していない
混沌とした状態のなか、
15日に自主避難に踏み切ったとうかがっています。
そして今は東京都内で
避難生活を送っていらっしゃるんですよね。

寳玉

今は東京でパートナーと一緒に暮らしています。
最初は茨城の古河に避難したんですね。
そこは叔母の家です。
暮らしがじり貧にならないよう
古河でアルバイトもできたけれど、
結局、誰のそばにいるかということが
一番大事だったんでしょうね。
家が福島第一から19kmで
手も足も出ないという状況が逆に後押ししたのも
大きな理由ですが、
最終的に、誰といるべきかというところで
私はパートナーと一緒にいる選択をしたわけです。
それで、東京です。

────

どんな毎日ですか。

寳玉

わりと忙しいです。
アルバイトなどはしていないんですけど、
パートナーの仕事を手伝ったりとか。
ただ、情けない話ですけど、
ものすごくパワーダウンしているので、
なにも考えられない時間というか、
ぼーっとしてしまう時間が非常に多いですね。
でも、そういう時間がないとたぶん立ち直れない。

────

原発や放射能の問題について、
周囲との温度差を感じることも多いと思うんですが。

寳玉

もちろん感じますけど、
そもそも人間同士がそんなに簡単に
わかり合えるわけがないと思ってますから、
当然だと思いますね。

────

温度差を少しでもなくそうと努めている人も
少なくありませんが、
それでも寳玉さんから見ると
逆に温度差が広がる結果になっている場合も
あるんじゃないですか。

寳玉

ありますね。
直接的に被災した人間というのは
なにかしてあげたいという他人の好意に対して
「それは要らない」とは言いにくい状況というのが
あるわけです。
さらに私の場合は、さまざまな国籍の人が
原発などの問題や震災支援についてアクションする
外国人中心のグループと関わっているので、
日本人の考え方を汲んでいるだけでは済まなく􏰀􏰀なっている。
それもなにかの運命だとは思うんだけれども、
やはりせめぎ合いますよね。
で、それでもいざというときのためには
門扉を開いておかなければならないから、
「やめてくれ、来ないでくれ」とは言えない。
もちろん、あまりにかけ離れるようなことが起きれば
ちゃんと言わなくちゃいけないけど。

────

こういった状況下では
共感というものが非常にクローズアップされます。
私自身も重要なものだと思っていますが、一方で、
共感をあまりに重視するのは怖いことだとも思うんです。

寳玉

いい提言だと思います。

────

だからまずは寳玉さんも言われるように
「人間同士はそんなに簡単にはわかり合えない」という
前提に立つことから始めないといけない。
その上で、その人になにが起きているのかを
共有する努力をすることが重要だと思うんです。
日本人の「汲み取る」とか「察する」という気持ちの向け方は
素晴らしいものですが、
共有を置き去りにしたままだと、
ともすれば思い込みの正義感で突っ走ることになりかねないと
自戒を込めて思います。

寳玉

まだ、みんな興奮してますよね。
こういう状況だと
やっぱりみんながなにかをしたくなるし、
逆にいうと、しないではいられなくなってしまう。
そしてどうしても美談を煽ったりしがちになる。
で、結果として共有が置き去りにされてしまうということも
あるだろうなと思います。
もちろん努力をしても、すれ違いは避けられない。
芸術のような一見して無害に見えるものは
非常にやっかいだと思う。
一方で共感を得ても、
一方では人を傷つけたりすることもあります。
どんなものでもそうでしょうけれど、
過敏になっている分、いまは顕著ですね。
普段は汲み取ったり察したりすればよかったんです。
言葉や行動がチグハグでも、
それを許せるだけの余裕があった。
今はそれが無いね。
でも、震災以前に多くの言葉がすれ違っていたことのほうが
重要な問題ですね。
特に詩人としては。

────

震災以降、詩は書いてらっしゃいますか。

寳玉

あまり書いていないです。
もともとそれほど多作なほうではないんですけどね。
震災があって、昨年の8月くらいまでは興奮状態でした。
で、あれ(※3.11以降に書いた6篇。暫定的な詩集として
イベントなどで販売している)を書いたのは
興奮状態の絶頂期です。
で、9月からドーンと落ちました。
なにも考えられないし、なにも感じない。
いまもそうです。
頭の整理ができない。
だから、なにかのイベントで詩を読んでほしいといった
いろいろな依頼が舞い込んでくるなかで、
震災前だったら「やろう、やろう」と二つ返事で引き受けて、
気に食わなかったら「それは違うぜ」というようなことも
どんどん言えたんだけれど、
いまは自分を守ることに必死で、
場合によっては「それは俺の仕事じゃない」ということも
言わなければいけない。
でも、それをやる体力と精神力がない。
やっても虚しさがつのるし、
依頼を断った時には、
自分はものすごく狭小な人間なんじゃないかと
自分に落胆したりもして。
それでも自分が信じているものは貫かないといけないわけで、
そうなると、どんどん孤立感が強まりますね。

────

いまも地元の方々との交流は続いているんですか。

寳玉

地元でのコミュニケーションの場は、
私の場合はさっき言った串焼レストランなんです。
とても面白い人たちが集まるところで、
交友関係としては決して狭くなかった。
常に面白いことが起こっていて、
片田舎で暮らしているなかで
外の世界とつながれる感覚も得られたし、
地方からものを発信する時代に変えてゆくんだという
気概を持つことができた。
震災後は、そこに集っていた人たちが
以前の交友関係を確かめ合う時間というか・・・・・・
その場に出てこられるようになるまでに
すごく時間がかかった方もいるし、
人の多いところにはまだ出る気にならないという方も
いらっしゃる。
なかには性格が変わってしまった人もいるという話も聞きます。
だからコミュニケーションそのものの手触りを
お互いが確かめ合っている時期だと思いますね。
そこにいる人たち同士さえ言い合えないこともあるのに、
外からもたくさんの言葉が入ってくる。
苦々しく感じている人もいるでしょう。
コミュニティが文字どおり揺さぶりをかけられたことで、
助け合いと奪い合いが同時に起こっているのを
すごく感じます。

────

奪い合いというのは?

寳玉

実際に略奪や独占の話も聞きますが、
そういうことよりは心の置き場所というかね、
行動や言動の正当性を確保しようとして、
相手を責めだすときりがなくなってしまう。
たとえばコミュニティのなかでの慰霊の方法ひとつとっても、
意見を気持ちよく譲りあうことが困難になっていたりする。
津波の到達点に目印の桜を植えようとしても、
一本の木に込める意味合いが一人ひとり、バラバラなわけです。
そこで衝突が起こる。
傷が癒えるまで、次々と心を苛む場面が出てくるわけです。

故郷への帰還、その期待と絶望

────

寳玉さんはどのくらいの頻度で地元に帰っているんですか?

寳玉

月に1度は帰りたいと思ってるんですけど、
実際には2カ月に1度くらいですね。

────

一番の目的はお父様に会うことですか?
30km圏内の借り上げ住宅で暮らしていらっしゃるんですよね。

寳玉

やはり父に会いにですね。
自分は父親をちゃんとケアしているんだと、
自己満足的に安心したいということでもあるんだろうけど。
それでも実際に会って、少しの会話をして、
部屋の片付けをして、一緒の食卓を持つということが
お互いにとって重要な意味を持っていることは確かですね。
そういう関わり方以外にもいろんな形があるとは思うけれど、
私には親を放っておくのはつらい。

────

ただ、30kmということは放射線量は決して低くないですよね。
できればお父様にも南相馬から離れてほしいと思っていますか。

寳玉

うーん、親父は63歳なんですよね。
15年くらい前に母親が亡くなって、
13回忌を過ぎたあたりで
ようやく気持ちが上向いてきたらしく、
煙草もやめてジーパンなんかも履くようになって・・・・・・。
新しい人生の到来か、というところで
こんなことになってしまったわけです。
で、いま暮らしているところは
部屋のなかで毎時0.3から0.5マイクロシーベルト程度。
比較すればもっと線量が高いのに
避難が行われてないところもあるし、
どう見るかは難しい。
それに私が離れてほしいと思っても、
地元を離れて暮らすストレスが
放射能の影響を遥かに上回る気もする。
ある程度の年配の人が残ることを選ぶというのは、
それまで生きてきたことのご褒美と言ったら
語弊があるか・・・・・・、
やっぱりご褒美なんだろうと思いますね。
年齢というものが。

────

もう自由にしていいと。

寳玉

うん・・・・・・それはありますね。
逆に、若い人たちがこれからどういう行動をとっていくべきか
考えさせられますね。
経済以上の自立という意味で
私自身は地元にすごく甘えて育ってきたから、
外に出るべき時期だったんだとは思います。
まさかこういう形で放り出されるとは思わなかったけれど。

────

そういった自己形成的な理由もさることながら、
現時点での「残るべきか、出るべきか」の選択基準は
やはり放射能問題も大きいですね。

寳玉

幼い子どもを持つ人たちはやっぱり顕著に
他県で生活をされているみたいです。

────

震災前は約7万1000人だった人口が、
今年4月の段階で、市内居住者数が約4万7000人。
死亡者や転出者を除いても
2万人以上が市外に避難しているようです。
把握しきれていない部分もあるとは思いますが。

寳玉

個人的には、戻る人が増えている感じはしますね。
町のなかで子どもの姿を見かけるようになりましたから。

────

それは除染作業が行われていることが大きな理由ですか?

寳玉

実際、除染作業自体は進んでいますよ。
場所によって除染前とは線量も比較的下がってはいるだろうし。
その数値が生活するに充分なものかどうかは別の話として、
除染の作業自体は進んでます。
で、私の友人が業者として除染作業に携わっていますが、
彼が自分の良心にかけて必死にやっているのもよくわかる。
現場に行ってみてみると、
ここまでやるんだなと思いますよ。
植え込みの下の砂の取り除き方なんかを見ていると
苦労が伝わって来て、
グッと込み上げるものがあります。
細かいところは手でやるしかないですからね。
ただ、それでどれくらい数値が下がるの􏰀か、
それで安全なのかというのはまったく別問題だし、
シビアに見極めなきゃいけない。
だから懸命さは評価の基準にはできないけれど、
それを知らずしてなにも言えまいと思う。
農地を復興させようと細かな瓦礫の撤去なんかもやっているし、
草刈りをしてからは見栄えもずいぶん良くなった。
でも、先が見えないから余計に悲しくなるし、
腹立たしくなるときもある。

────

除染については、
南相馬市はかなりの予算を割いていますね。
農地と生活圏を合わせて2012年度の除染予算は約270億円。
桜井市長も「人口を元に戻す」と発言していましたし、
4月に、警戒・計画的避難の両区域が解除され、
避難指示解除準備、居住制限、帰還困難の
3区域に再編されたことも、
その後押しになっているのではと思います。
これについて寳玉さんはどう思いますか。

寳玉

そうですね・・・・・・、
そもそも、自分がどこに住むかを決めるのは
放射性物質の有る無しとは別に本人が決めることだし、
放射性物質の問題についても、
たとえ線量が確定的でも
安全性を確認しようがないわけじゃないですか。
誰にもわからない。

────

除染にも限界があるわけで。

寳玉

だから、そこはもう個人の意志によるのだとしか
言いようがない。
去る人と残る人、両方の気持ちがわかりますからね。
誰かがそこにいなければ、
どんなものが入ってくるかわからないわけだし。
この混乱している状況においては、
守る者のない土地というのは
もしかしたら永遠に失われる可能性がないとも言えない。

────

それは、あるじが不在の土地を他人が奪うという意味ですか?

寳玉

そういうことです。
まあ、それは考え過ぎかもしれないけど、
物理的な意味においても
そこで生活することでしか守りきれないものがあるのは
確かだろうと。

────

除染作業が進むなかで、帰還への期待はありますか?

寳玉

期待がないといえば嘘になるけど、
それ以上に不安しかないですね。
そして期待と失望を繰り返しているうちに
きっと一生を終えるんでしょう。
でも、目を凝らして生きていれば
自然と別なものも目に入ってくるだろうし、
人間が生きるということは、それを探すことだと思う。
逆に、ものが見えないようなら詩人なんか要りませんしね。
生まれた土地を見捨ててしまうと、
私の根底にあるものは大きく損なわれるだろうとは思います。
ただ、そうなったとしても生きるしかない。

────

根底にあるものとは?

寳玉

ひとことで言ってしまえば「情緒」ですね。

人間にとって最も大切なものは「情緒」

────

情緒が損なわれる。

寳玉

そう、感情ではなく、情緒。
人間にとっていちばん大事なものだと思います。

────

情緒について、もう少し話していただけますか。

寳玉

それはもう単純に、
葉っぱとか石ころが美しいと思う気持ちだと思います。
花は美しいと言われているから美しいと感じるわけじゃない。
綺麗だと教えられているから綺麗だと感じるわけじゃない。
自分の気持ちが
「ああ、綺麗だなあ」というところに行き着かなかったら、
花をいくら見てもなんとも思わないじゃないですか。
ああいいね、綺麗だねという、わき上がってくるもの、
これが情緒でしょうね。
経済活動のなかでは情緒という言葉も形骸化しているけれど、
本来は人間の根幹にあって、
人間の生命活動を支えているもの。
だから、たとえば「情緒不安定」という言葉があ􏰀􏰀るけれども、
情緒が不安定だったら、それはとてもつらいことになる。
長期間、硬直してしまうことだってあるしね。
怒りも悲しみも大切な情緒だけれど、
ひとつだけが続くと固まっちゃうでしょうね。

────

あたり前のことのようで、
綺麗なものを綺麗と思える
しなやかな心を常に維持するというのは、
意外と大変ですよね。

寳玉

すごく大変だと思います。

────

健やかな情緒を守るために必要なことは、なんでしょうか?

寳玉

これはすごく明解で、
物事をよく見るということに尽きるんじゃないかなと。
そして文字どおり「生活する」ということ、
生きて活動することですね。
なんとはなしに命を消費していくのではなく。
非常に月並みな答えだけれども。
なにか損なわれてしまったものがあったとして、
それから先というのは、
その悲しみや怒りを背負いながらでも
丁寧に生活していくしかない。
それに、すべてが破壊されてしまったわけではない。
四季の移ろいであるとか、
今も変わらずそこに存在しているものもある。
だから、損なわれ、傷ついているのであれば、
なにが傷つき、なにが損なわれずに残っているのかを
きちんと見つめ、考えることが大切なんだと思います。
昨年の震災以降、
いろんな活動・・・・・・支援であったり芸術の面であったり、
いろんなことが爆発的なスピードで
たくさん起こっているんだけれども、
私はもっと抑制が必要だと思うんですよ。

────

それはある種の熱狂やムーブメント的なものへの
警鐘でしょうか?

藤波

大震災のあと、ある書店で
詩のコーナーが拡大されたという話を聞いたんです。
詩集が急によく売れるという状況は
ちょっと怖いと思うんですね。
私は、詩って結局、念仏みたいなもんだと思うんですけど、
リズムがあるでしょう?
たとえば日本の「うた」というのは、
かつて「五七五」で書かれていたわけだけど、
その韻律を使って戦争が助長されたという
ひとつの考え方がありますよね。

────

戦争詩ですね。

寳玉

そのときの反省を踏まえて書かれた戦後の自由な詩であっても、
韻律はやっぱり内在している。
リズムを持つことで、言葉は力を持ちます。
それは人の心を結びつけるでしょう。
しかし同時に、人の心が単一になって
一気に破滅に向かわないよう、
読み手を孤独に引き戻す力も重要だと考えています。
神が人間の言葉をバラバラにした『バベルの塔』の話と
よく似ているんだけれども。

────

旧約聖書の『創世記』に登場する話ですね。
技術が進歩し、
天まで届く塔を建てようとした人間の傲慢を知った神が、
「言葉が単一であることが原因に違いない」と
互いの言葉が通じないようにしてしまう。

寳玉

そうです。
で、詩に内在されている韻律や、
そこにある理性を超えた言葉の直接的な感じというのは、
やはりどこか麻薬のようなものです。
読むことで安堵もする。
それでいいんだけれど、
大きな規模で起こっているとなんだか気持ちが悪い。
その気持ちが私のひがみであり杞憂ならいいんです。
いまは混沌が渦巻くなかで、力のある言葉に
さまざまな人の思惑が乗ってしまいがちだと思うから、
言葉の力を抑制し、ときには隠匿していくのも、
詩人にとって大事な仕事だと思う。
だから詩集が売れない普段の状況は、
情緒の健全性から見れば、
バカ売れする状況よりは
ブレーキが利いている状態だと思うんです。
でも詩の善し悪しはともかく、
その伝え方や伝わり方は、
震災を捉えやすい目印にして大きく変容したかもしれない。
ツイッターに書かれた詩が広がったのは必然だと思うんですね。
保守的な観点からみれば言い知れない抵抗があるんだけれど、
少なくとも読者への届け方については
すでに変革の津波が来たのだと思う。
震災直後に日本はさまざまな言葉で埋め尽くされましたが、
そのなかには詩の言葉もたくさんあって、
追求不能の異常な量感に、
私は津波と放射性物質に感じる恐ろしさを感じました。
アートと称されるものに、それを感じるときもある。
大掛かりなアートイベントの会場で、
津波を思い出して吐きそうになったりもした。
勇気づけられるどころか生気を失って殺伐としてくる。
これは私の個人的な反応かもしれない。
しかし、私はそんなふうに押し寄せてくるものから
私自身の詩を守らなくてはならない。
いまは沈黙することも多いです。

────

先ほども少し出ましたが、
詩の役割について寳玉さんは、
震災後に書いた『三月追想、そして』という散文のなか􏰀􏰀で
養蚕の話を例に、
「無事に美しい繭を作った蚕も、その後、茹でられて死ぬ。
それらの臭いを未来の礎に置換出来る者を、
本来、詩人と称する」
・・・と書いていらっしゃいますね。

寳玉

一枚の葉っぱだったり、石ころだったり、
陽射しだったり、笑顔だったり、
赤ちゃんを背負ってるお母さんが
「ほら、お花だよ」と言って傾けてる
背中の角度であったり・・・・・・。
死ぬことや汚いものだってそうです。
それそのものが詩なんです。
そして人々がそれらの印象に慣れてしまわないように、
心のなかにある伝達経路を組み替え続けるのが
詩人の仕事だと思うんです。
だから非常におこがましいし、
ほんとに余計なものですよ。
でも必要な仕事です。

────

つまり人間にとってもっとも大切な、情緒を守る役割。

寳玉

間接的にはそういう役割だと思います。
でも、すべては自然のなかで起こることであって、
それ以上のことはできない。
でも、自分が自然のなかに異物として没入していって、
そこで知った情緒の伝達経路を図案として残すことで、
あるとき、誰かの感情にしなやかさをもたらすことが
できるかもしれない。
そのときのために書く、とまでは言えないけれど、
そうでなければならないと思う。
そして、やはり自然がすべてなんです。
そこで起こることを観ることです。
そこには果てしなく深い沈黙があり、
そこにこそ無限の音声が満ちている。
すべてが永劫のなかでゆっくり動いているかと思えば、
電光石火のごとき速さもある。
それらに翻弄されながら、揺り戻しながら、
自分のなかに澱が沈んで、
熟成されていくものを守らなくちゃいけないんだと思います。

田村隆一が好きなんですが、最近気になっているのが
『十三秒間隔の光り』という詩のなかの、
「せめて梨の木の内部に死を育てたいのだ」
という一節です。
梨の木に水をやりながら、
詩人はそういった意識をもっているわけです。
私は一緒の家でいつも暮らしてきた家族三人の死に
立ち会っていますが、
それらの細部を観てきたことで
すいぶんと私のなかで育ったものがあるように思うんです。
それはやっぱり、私のなかの「死」だと思います。
とても豊かな感覚です。
実家が昔、お寺だったこともあって、
仏教が身近にあるから余計にそう感じるのだろうけどね。

だから、ちょっと抽象的な、
このインタビューのタイトルに込められた繊細さも
よくわかる気がします。
「生き続けるために」というのは、
だらだらと貪って生き長らえようというという意味では
ないですよね。
「生き続ける」ということの意味を能動的に考えると、
それはやっぱり生活のなかの小さな光というかね、
もっと簡単に言えば生活の丁寧さです。
「希望の在りか」というのも、
そこじゃないかと思いますね。

生命は、それ自体の力で生きている

────

いま一度おうかがいしますが、
故郷に帰れるものなら帰りたいですよね?

寳玉

帰りたいですね。
そこにあるものが私のすべてだと、いまは思う。
外に羽ばたきたくても、蹴る地面がない。
そしてこの先、子どもを授かることができるのなら、
故郷に居続けるわけにもいかないと思います。

────

子どもの健康を考えると?

寳玉

子供を授かって育てるということだけは
私ひとりで決められることではないですから。
パートナーも私が生まれた場所のことを思いやってくれます。
私の父親はそこにいますが、
自分の生活と二者択一してよいものではないはずです。
私は先に話したような理由から、
年配の家族と暮らすことは情緒を守り育む上で
大変重要なことだと考えます。
しかし私にはそういうひとつの、
自然な選択肢がなくなったということです。
この悲しみと怒りは計りしれない。
人間をそこに追い込むのが原子力事故です。
原子力を利用するということは、
人間の肉体だけでなく、
魂の根幹を傷つける事態と背中合わせだということは明白です。

────

寳玉さんのなかで損なわれてしまった情緒が
時間をかけながらでも修復されていく、
その道筋をいま、想像することはできますか?

寳玉

非常に難しい問題ですね・・・・・・。
「損なわれたものは戻らない」と言いきってしまいたい。
それでも生きていくしかない。
自作に、29歳のときに書いた
『遠いあなたに』という詩があるんですけど、
読まれました?

────

読みました。
生きることの本質というのは
日々のさまざまな考え方や生き方・・・・・・たとえば、
なにかを考えるとか考えない、
するとかしないといったことのなかにあるわけじゃなく、
生きること、そのもののなかにあるんだという。

寳玉

それでも選択していくしかないんですけどね。
どちらを選んでも、生きることの本質からは
どこかずれていく気がするんです。
私を詩の入り口に立たせた人が
振れ幅で生き様を見せていくのだ、と言っていたけど、
今回の災害のようなものによって、
その片方が失われてしまうこともある。
選択する自由を失うと
本当に生きている気がしなくなってしまうのですが、
悲しいかな、結局生きているわけです。
だからこそ、それでも希望というものを
見出すことができるとするなら、
「生命は、生命それ自体の力で生きているんだ」という、
当たり前の事実に帰ってくる。
これは『風の谷のナウシカ』の終盤に出てくる
言葉ですけれども。
どんな世界であれ、たったいま生きているという、
それがすべてなんだという。
私はその事実に丁寧に向き合っていくこと自体が
「希望」なんだと思います。

























インタビュー2回目: 2013年3月26日



────

前回お話をうかがった後に、
南相馬の避難区域が再編されましたね。

寳玉

そうですね。
私の実家は、現在は20km圏内でも
避難指示解除準備区域の中に入りました。
日中は復旧復興のための作業目的で
出入りできるようにはなりましたけど、
宿泊はできません。
理屈ではわかるんですが、
実際そこで復旧に必要なことをあれこれしだすと、
生活と復旧復興の違いってなんだよ、という気になります。
変な話ですよ(苦笑)。

────

宿泊は不可というルールは
かなり厳格に守られているんですか?

寳玉

確かめる術もありませんが、
特に問題があったという話は聞きません。
厳密に何時以降は立ち入り禁止というふうに
決まっているわけでもないようですね。
夜中に警戒中のパトカーの前を通ってその地域に入っても、
必ず止められるわけではない。
地元の見回り隊が巡回警備していて、
もし不審があれば通報して、
それから警察が来るという状態です。

────

お父様はいまも30km圏内の借り上げ住宅にお住まいですか?

寳玉

そうです。
相変わらず借り上げアパート暮らしですが、
昨年春から農地復興組合が市内の各地で組織されまして、
父は私の地域の音頭をとりながら、
瓦礫を拾ったり草を刈ったり、
朝から晩まで忙しくしていたようです。
すごく活気づいてやってましたね。
百姓だから、身体を使わないとやっぱりダメなんです。
かつては市の議員でもあったし、
机の上の仕事もいろいろできるんだけど、
それだけだと発散できないみたいですね。

────

飯舘の方とお話しした時にも、
農作業によって心身のバランスが取れていたのが、
そこが失われたことによって
多くの方が体調を崩しているとのことでした。
身体を動かすならなんでもいいというわけじゃないですよね。

寳玉

じっくりと使い込まれてきた身体だからパワーがあるんです。
それを持て余すというか、
ちょっと運動するとかなんとかで
発散できるものじゃないんだと思う。
ややオカルトですけど、
土に触ると身体の気がアースする、とか言いますよね。
土いじりは心身にすごくいいと言うけど、
そういうことはもしかしたら本当にあるのかもしれません。

────

寳玉さんの南相馬のご自宅はどんな状態ですか?

寳玉

書類上はいわば半壊状態だったんですね。
まあ、半壊といっても程度がいろいろあるわけですけども、
私の家は、ぐし瓦が崩れたり、柱が少し斜めになったり、
土壁が崩れたり、雨漏りをして畳が腐ったりという、
そのくらいだったんです。
で、どちらにしてもリフォームの時期に入ってもいたのと、
私は農業ができるようになれば
地元で農業に復帰するつもりですから、
とにかくリフォームは必要だなと判断して、そうしました。
まだ住めないですけども、きれいにはなりましたね。
ただ最近、あの津波の被害が書き込まれた
ハザードマップみたいなものができ上がってきたので
見てみたら、
本当にうちのすぐ前まで来てたんだな、というのが
改めてわかったわけですよ。
地図にマーキングされた浸水地点を見ると、
ああ、怖いなと思いますね。
今回は無事だったけど、
本当にここに住んでいいのか?とも考えてしまいます。

────

農地はどのような状態ですか。

寳玉

復興組合の活躍で、見た目にはだいぶきれいになりましたよ。
瓦礫も1ヵ所に集められたし、草も刈り散らされています。
測量してみないとわかりませんが、
地震で地盤沈下も起こっているはずですから、
水利はめちゃくちゃになっているだろうと思います。
水を流した時に、いままでどおりには流れないんじゃないかと。
津波で塩をかぶったところについては、
土を入れ替えるかどうか、という相談を
これからすることになると思いますね。
まだ耕したりはしていません。
表土をはがすと残土の問題が出てきますが、
表土の入れ替えは放射性物質の問題に対しても
それなりに有効じゃないかなとは思います。

────

いま、空間線量はどのくらいですか。

寳玉

いまは私の実家の外で
0.2〜0.3台(マイクロ・シーベルト/毎時)が
平均というところです。
そのぐらいの線量になってくると
除染をどの程度やるかは未知数ですね。
おそらくそこから平常値に、というのは難しい。
それは作業する人にとってなかなか酷な話でしょう。
私が持っている線量計は若干高めに出る傾向にあるんですが、
以前は0.35くらいが平均値だったんですね。
いまは(外で)0.1台が出ることもある。
あまりヒステリックになる感じではなくなってきてますね。
ただ、森や林では間違いなく高いです。
0.7くらいあります。
それをどう見るかでしょうね。
森や林が存在しなければ
放射性物質が生活空間に流れ出てくるわけですから。
日本人は森に守られて生きてきた感覚を持っている
民族だと思います。
現状についても、汚染と言ってしまえば
それは確かなことだけれど、
それでもなお森に守られている、という
見方もあると思うんです。

────

私が暮らしている東京も3.11以前とは値が違うでしょうし、
これはもしかすると3.11以前からかもしれませんが、
日本全国で見ても空間線量が
まったくのゼロの場所はないのではと考えていくと、
現実問題として、
どのように「数字」と付き合っていくかということに
なってきますね。

寳玉

冷静に数字で判断していくしかないと思うんです。
生活するんだったらこれ以下、
ちょっと入るんだったらこれくらいとか。
きちんと情報を集めれば、
個人的に目安は設けられると思うんですよ。
そこを感情論だけで外からああだこうだと言われると、
こっちも感情的になってきます。

────

寳玉さんは「数字」をどのように見ていますか?

寳玉

1回の滞在は長くて2週間くらいなんですね。
で、漠然とした私の基準ですが、
年間3ミリ(シーベルト)は超えたくない。
正直なところ自分だけのことであれば、
それで充分だろうと思っています。
いまのところ、
いろいろと計算してみると3ミリは割りそうで、
うまくいくと1ミリ台かなという感じですね。

身近な人に寄り添ったほうが、人の気持ちはわかる

────

宝玉さんの目から見た南相馬の復旧状況はいかがですか。

寳玉

やっぱり原発に近づけば近づくほど悪いように見えます。
瓦礫処理の仮置き場がようやく決まり始めたところで、
まだ本格的に重機が入ってきてないから、
いたるところに瓦礫が仮積みされた状態。
風景そのものも変わってしまいましたしね。
海沿いの景色が一変しましたから。
でも、結局はいずれ慣れてしまいます。
そこに家があった人にとっては
「ふざけんな」という話でしょうけど、
自分の安全を確保して
その風景を見続けている人間としては、
非常に無責任な言い方だけど、
なじんできてしまうというか。
でも、黒々した防風林と田んぼの緑のコントラストを
思い出すと、
やっぱり受け入れられないですね。
そういうときは、ひどい疲れを感じます。

一方では、田んぼに人の手が入ってきましたから、
それなりに「俺たちは死んでないぞ」という
底意地が見えてもいます。
朝になると20キロ圏の中に、作業に向かう人たちの車で、
震災前と同じくらいの車の列が6号線にできるんですよ。
それを見ていると、壊疽を起こしそうだった血管に
血がバーッと通ったような感じがする。
道が繋がるって、やっぱりすごいことだなと思いますね。
私の中にもかつての記憶のようなものが
徐々に戻ってくるのを感じます。
ただ、身体的記憶・・・・・・身体が実感的に覚えている記憶を
取り戻すには、
まだまだ時間がかかる気がします。

────

2年が過ぎて、
最近は「風化」という言葉が聞こえたりもしますが、
忘れられてきた感触はありますか?

寳玉

まあ、正確には、なにが風化するのか、ですよね。
どんな形であれ、
あの災害に今も直接的に向き合っているかぎり、
その人の中で風化することはないわけでしょう?
忘れる以前に、経験のない人には、
本当の意味ではおぼえることもできないわけです。
風化するだけのなにかがそもそもない。
でも、それ自体は仕方のないことです。
世にいう風化というのは、
結局メディアがつくった空気が
メディアの手の中でしぼんでいる状況に過ぎないんじゃないかと
思うんですね。
そんなのは早く風化してよいと思います。
それは、まる2年を迎えてのテレビでの震災特集を見ていて
思ったんですけどね。
被災地を思いやるとか、そういう切り口よりは、
いかに個人の防災意識を高めるか、ということに
つきると思うんですよ。
防災ということに立ち返って、
有事の際に自分の命がどれほど危険にさらされるかを
真剣に検討した時に、
初めて被災した人間の恐怖も想像できるんじゃないかと
思うんです。
ただ単に気持ちを寄せるというのは、
もうあんまり意味ないんじゃないかなと思うし、
実際、簡単な話ではない。
それを無理にやろうとすると、
どうしてもスローガンに向かってしまう。
そんなことよりむしろ自分の身近な人、
家族や友だちなんかの気持ちに寄り添っていたほうが、
いざってときにも
人の気持ちはよくわかるんじゃないかと思います。

────

自分の命を考える、身近な人に寄り添うというのは、
わかるように思います。
自分の生活半径から物事を考えていくことが
真の意味での当事者意識なのではと、
私も最近ひしひしと感じますし。

寳玉

そうそう、災害に関しても日常生活に関してもそうですが、
生きるということは危険を含めて
「死を想う」ことだと思います。
だから私も、いま東京にいるのが怖いです(苦笑)。
最近、仕事の都合で横浜によく行くんですけど、
地震が来て、津波が来た時に、
どこまで水が来るか建物を見ながら想像しちゃいますね。
私はいまだに海の近くは怖いですよ。
福島県の場合は東電の原発が
クローズアップされちゃってますけど、
いま当時のことを思い返すと、
津波が本当に怖ろしかったし、
映像なんかを見直すと地震の怖さも生々しく思い出すんですよ。
パートナーにも
「自分だけが死なないなんて思っちゃいけないんだ、
自分だけは死ぬかもしれないと思わないと」
って言ってますから。

混沌のなかで結婚を決断した理由

────

前回お話をうかがって以降の
寳玉さんの暮らしや気持ちの変化を
おうかがいしてもいいですか。

寳玉

ええ。
実はパートナーと正式に結婚しまして。
で、このタイミングで結婚というものが入ってくると、
全部が混沌のまま動いてる感じがしてますね。

────

混沌のなかで結婚という選択をなさったのは?

寳玉

このまま南相馬が落ち着いた時に
どうにもならなくなるんじゃないかと思って。

────

南相馬が落ち着くと
どうにもならなくなるというのは?

寳玉

まあ、落ち着いてはほしいですが、
なんといっても人口が減ってしまいましたからね。
経済的にも、いまあるものだけでは
ますます厳しくなるでしょう。
それに農業では、高齢化が進んでいた状態で
大災害が起こってしまったから、
復旧後にいざフタをあけてみると、
農業をやる人がいなくなっている、という状況が
あり得るわけです。
さらにそこにTPPも絡んでくるとなると、
この先一体どうなってしまうんだろう?という怖さがある。
そう考えた時に、
自分は元の状態に戻っていっていいんだろうか?という
疑問が浮かびます。
かといって東京にいる意味も、まだ見いだせていない。
いまのところ東電からの賠償はありますが、
移動の多い生活のなかで
それにかかるお金を含めて、
まだなにも生み出せていない。
焦りますよね。
そんななかで、
「人の繋がり」という一点だけでもいいから、
南相馬と外をつなぐ部分作っておきたいという気持ちが
あったんです。

────

ええ。

寳玉

彼女はイギリスと日本のハーフで、
世界をバタバタ飛び回りながらミュージシャンをやっています。
そんなこともあって私のところにも
前より広範囲に情報が入ってくるようになったし、
私が望めば、いろいろなところにつながっていくことも
可能になってきた。
あとは自分がいかに為すべきことをやって、
日本という国の、あるいは福島、南相馬の役にたっていくか。
志を折らないことでしょう。
特にいまは、いろんな物事の水際になっている
福島の役にたちたいと思うわけです。
ただ、いまは間接的なことが多くて心苦しくもあります。
時間は有限だし、自分はどう行動すべきか、
簡単にはわからない。

────

立ち入ったことをうかがいますが、
彼女は福島の方ではないですよね?
震災や原発事故に関連した事柄での
感覚の違いもあるのではと思うんですが。

寳玉

もちろん。
だから相当な軋轢がありますよね。
彼女はあの時、滋賀県にいたんです。
揺れすら経験していない。
揺れも経験しなかった人と、
1号機、3号機と爆発するなかで、
ガソリンがなくなるぞと言いながら逃げてきた人間とが、
かみ合うわけがないんです(笑)。
で、これまでさんざんやり合ってきたし、
いまもやり合うんだけど、
なんて言うんだろうなあ・・・こういうのははっきりって、
縁です。
神様がそうしなさいと言ったから結婚するんだと言って
お互い納得している。
繊細なところをぶつけ合わずに、
ヘタなところで折り合いが付いていたら今頃、
無理だったんじゃないかと思います。
お互い完璧主義的なところがあるから、
後になってズレに気付いたら、
すごくおろおろするでしょう。
人間同士なんてそんなに簡単に理解し合えるわけがないし、
私が体験したものを彼女が完全に理解することは無理だろうと
私は思うわけです。
喧嘩するにしても一気にやったんじゃキツイから、
私は問題を棚上げしようとしますけど、
彼女はこちらの気持ちを理解できると思っているから
絶対に諦めないし、食い下がってくる。
そこには性別やパーソナリティの違い、
これまでの生き方の違いもある。
その違いに対してどれくらい寛容になれるかってことが、
結婚の主義なんだと思います。
ならば、それをやらずして
人生がどうなるものでもないと思うんですよ。

────

彼女の理解することを諦めない姿勢も
宝玉さんの「違い」に対して寛容であろうとする気持ちも、
苦しい状況にあるほどに大切なことだと感じます。

寳玉

そうなんだろうと思いますね。
それにさっきも言いましたけど、
彼女は世界を舞台に動き回りますから、
国籍を問わずいろんな人と繋がるきっかけをもたらしてくれる。
それはそれで時々キツいんだけど、
普通に南相馬で過ごしていたら起こり得なかったことが
徐々に起こりつつある。
それはある意味、震災と津波がなにかを壊した結果でもある。
あの出来事が起きて良かったなんてことは
口が裂けても言いたくないけど、
いい意味でもなにかが壊れていっているんだと
認めざるを得ない部分はある。

────

3.11の出来事が、
宝玉さんの人生における見えない壁をぶち抜いたと。

寳玉

いや、順番が狂っただけで、
いずれぶっ壊れるだろうとは思っていました。
導火線は自分で引いてましたからね。
でもあんまりにも急です。
いまは一気に来ちゃって手に負えなくなってますね。
そうだなあ・・・・・・テトリスってゲームがあるじゃないですか。
あれにたとえるなら、
底辺のピースがぐちゃぐちゃなまま
どんどん積み上がっていって、
ギリギリのところで一列ずつ消し続けている状態。
でも中層にいいピースがストンと入れば、
パーン!と消えるんだろうなという感じはあるんですけどね。

────

でも緊張しっぱなし。

寳玉

メリハリの「ハリ」しかないですね。
結局、自分で農業ができないというのが怖いし
落ち着かないです。
補償金が入ってきているとはいえ、
いつどうなるかわからない。
あれだけの土地と、
農家をなりわいとしてやってきたということを
今後どうしていくのか。
農業をやらないとなれば、
じゃあどこでなにをして生きていけばいいのか、
そういう問題が一気にここで突きつけられています。
ただ、それって震災がなくても、
いずれは突きつけられた問題なんじゃないのか?という気持ちも
どこかにあるんですね。
全部が全部、震災のせいにできるものだろうかと。

────

全部を震災のせいにできるものだろうか、
というのは正直なお気持ちでしょうけど、
他人には言われたくない言葉でもありますね。

寳玉

そうなんですよ。
自分からは言えるけど、
人からは言われたくないことって震災後はすごく増えた。
その区分が誰にとってもわかりがたいから、
いろんなところでいさかいが起こるわけです。

最前線で復興にあたる友人たちに励まされる

────

先ほど「自分の身近な人の気持ちに寄り添っていたほうが、
人の気持ちはよくわかるんじゃないか」という
お話がありましたが、3.11以降、
あれもこれも考えなくてはと外側に拡散した意識を
再び自分の中心に連れ戻す作業が、
そろそろ重要なのではと感じています。
それこそ身近な人や物事に気持ちをしっかりと寄せたほうが、
自分がなにをなしたいのか、なにを大切にしたいのか、
どう生きたいのかということが見えてくるんじゃないかと。
これはたぶん1年前に寳玉さんが言っていた
「情緒を守る」ということにもつながる気がしています。

寳玉

私もそういうことだと思いますね。
実は昨年の夏に、
フランスのポンピドゥー・センターが新鋭の芸術家を取り上げる
「オールピスト」というプログラムの日本支部ができて、
ありがたいことにパフォーマンスの機会をいただきました。
しかも会場が南相馬だというから驚きました。
それは「プロジェクトFUKUSHIMA!」がどこかで
オールピストとくっついたわけだったんですが、
南相馬の朝日座という大正時代に建てられた映画館で、
写真家の友人が撮ったフィルムとあわせて
自作の詩を読んだわけです。
底なしに気持ちが沈んでいって、
どこが一番底なのか?ということを探っていた時に
出てきた詩です。
心の底からターンして行くための折り返し点を探して、
杭を打たなければならないだろう・・・・・・という気持ちから
出てきた詩です。
内容的には震災からちょっと離れて書いているんだけど、
そもそも私の経験ですから、
いろんなところでリンクはしていて・・・・・・。

────

(詩を読ませていただく) 静けさを感じます。
詩を読んでいるのに聴覚を意識させられるというか。
さまざまな感情をかきわけながら
心を降りていったところにある
穏やかな静寂を感じます。

寳玉

3.11以降はとにかくそこらじゅうに
声や音があふれましたから、
それを消したかったんでしょうね。
それじゃあ、なにを聴くべきなのか、といった時に、
自分のルーツにある、
自分のものではない魂の声というか、
本来詩人が聴くべきものを聴かなければならないだろうなと。

この詩について少し説明すると、
朝日座の社長さんは、
亡くなったうちのおじいさんの親友だったんです。
毎年暮れになると
東映の女優さんが月替わりで描いてあるカレンダーを
持ってきてくれていたんですが、
お歳を召してからは、あまりお見かけしなくなった。
それが、うちのおじいさんが最後に家で過ごした年の瀬に
ひょっこりと持ってきてくれたんですよ。
そしたら、ほとんど寝たきりになっていたおじいさんが
飛び起きたわけです。
それだけでも驚きなのに、
庭まで駈けて行って手を振ったんですよ。
「○○さん、じゃあな! ありがとう!」と言ってね。
その印象がすごく強くて・・・・・・。
その時の、一直線に友だちのところに走って行く感じが
モチーフとしてずっとあったんです。
さっき「身体的記憶」という話をしたけれど、
そういうシーンを見ている時の空気や光の感じを
ちゃんと身体がおぼえているわけです。
身体と精神をつなぐために必要な点を、
詩で捕まえているんだと思うんですよ。
そこから徐々に身体を取り戻すところに
私は向かって行ってるんだと思う。

────

「取り戻すところに向かっている」ということは、
気持ちは安定の方向に向かっているのでしょうか。

寳玉

以前よりは安定してますね。
それはやっぱり、
実家の母屋が形を取り戻したというのが大きい。
まだまだそんな状況じゃない人のことを思うと心苦しいし、
私自身もそれで生活の基盤が戻ったとは
まったく言えないけれども・・・・・・。
ただ、地元の最前線で仕事している先輩や友人たちの
がんばりに励まされてもいます。
もうグダグダ言ってる場合じゃないよな、っていうところまで
やってる人たちがいるわけだから。

────

最前線というのは?

寳玉

復興の最前線です。
たとえば私の親しい先輩に土建関係の人がいて、
彼は地元で砕石メインの建材販売を営む砂利屋さんなわけです。
大手ともわたりあって
「東北のここからここまでの護岸の砂利は俺が納める」と
請け負うわけです。
もちろん大金も動く。
でも聞いてみると、
それは特需に伴い急激な物流の過程で生ずる
必然のコストであって、
実情は自分の血肉を切り売りするに近いやり方なわけです。
そこで儲けようということではなく、
彼は国益というものをまともに考えてやっている。
「俺はODAで外に出ろと言われたら、いつでも出るよ」と、
それぐらいの気持ちで、いまは復興にあたっている。
彼のような人たちはほかにも大勢いて、
南相馬にいるときは彼らの姿がよく見える環境に
私はいるわけです。
莫大な力が動いているなかで懸命に舵取りをしながら、
この国の未来を根元から支えている人たちの姿です。
彼らと並んだ時に恥ずかしくないだけのことを
私もやりたいですよ、せめて。

────

「よくぞこれを書いてくれた」と言われるような
詩を書くということですね。
寳玉さんの役割として。

寳玉

そう。せめてね。
よい文学は未来を映します。
現状にしっかり立って、
いつもそこに手を伸ばすことですね。
でも、どんなにがんばって詩をひとつ書いたとしても、
それは瓦礫をひとつ拾う実際の行動に敵わないと、
やっぱり思います。