「希望の在りか」について。



「希望の在りか〜死に続けるのでなく、生き続けるために。」と題した
このインタビューは、
わたし河野アミが「3.11」のあとにおこなった
二つのインタビューシリーズのうちの一つです。
ジャーナリストでメディア・アクティビストの津田大介さんのメールマガジン
「メディアの現場」に掲載していただき、その後、
津田さんとインタビュイー各位の了解を得てインターネット上で公開。
サイト移転のためしばらくネットから下ろしていましたが、
今回、東日本大震災からまる5年となる2016年の3月に、
ふたたび公開することにしました。

インタビューはすべて、
2011年の末から2012年秋にかけておこなったものです。
そのため、お話しくださった方々もわたし自身も
いま以上に3.11の──なかでも原発事故という衝撃の影響下にあったことが
言葉のいたるところに、にじみ出ています。

そういう意味でこのインタビュー集は
3.11にまつわる記憶の一部を記した証言集といえますが、
同時にこれは「希望とはなにか、それはどこにあるのか」という
問いの答えを求めて臨んだものでもありました。

人が生きる甲斐のようなものを見失ったときに
「もう少しがんばってみよう」と思わせてくれる、なにか。
暗闇にふっと差し込む光のようなもの。
多くの場合「希望」という言葉におきかえられるそれは、
本当はどんなもので、どこにあるのだろうか・・・・・・と。

もちろんこの問いは、震災や津波、原発事故によって
わたしたちの「生きる」が揺らいだこと、
少なくともわたしがそう感じたことによって出てきたものです。

それまでの日常がひっくり返ってしまった現実を前に、
どちらの方向に足を踏み出せばいいかわからない。
シーベルトやベクレルといった
わたしたちの日常とはおよそ無縁だったはずの言葉が
友人同士の会話のなかでも飛び交うようになり、
前に進むために得るさまざまな情報や考えは、
また別の情報や考えによってあっさりとくつがえされていく。
あらゆるものが不確かさを増していくこんなときこそ
行く先を照らす光が必要だというのに、
「希望」という言葉を口に出してみても
なんだか中身が抜け落ちたようにむなしく聞こえる。
・・・そもそも、希望とはなんなのだろう?

インタビュー集のタイトルに掲げた「希望の在りか」とはまぎれもなく、
このような「3.11」という背景をもって生まれ出たテーマでした。

ですが、震災や原発事故のような大惨事に見舞われなくとも、
人はときにどうしようもなく途方に暮れたり、
今日を生きることさえおぼつかなくなったりする。
そういう意味では、このインタビューは3.11後にとどまらない、
人が「生き続ける」ための思索を記したものでもあると思っています。

そしてふたたび3.11に視点を戻せば、
インタビューをおこなった4年前も、いまも、10年後も、50年後も
「3.11後」であることに変わりはなく、
3.11という出来事に対してわたしたちがなにを思い、
なにを考えたのかを記憶にとどめておくことは、
戦後社会が戦争を記憶し続ける必要があるのと同じように重要なはず。
その記憶は、経済大国としての社会を支えてきた
さまざまな価値基準がいよいよ変わりつつあるなか、
わたしたちがこれからの社会を模索するための
大切な手がかりの一つとなるのではと思います。

お話しくださった方々も時の経過のなかで
とりまく環境や心情に多少の変化があるかもしれません。
ですが、ここまで記したような思いから、
このインタビュー集をいま一度、公開することにした次第です。


再掲にあたっては、
現時点での情報に基づいてプロフィールを変更して
前置きや本文の誤記を訂正した以外は、
基本的に最初の発表時のものをそのまま載せています。
写真もインタビュー当時のものです。

それから、おもに「表現」をなりわいとする方々に
お話をうかがった理由についてもあらためて。
これは、最初にお話を聞きたいと思ったのが音楽家の小室等さんだったこと、
そしてわたしが長年、音楽方面のライターとして仕事をしてきたことが
大きく影響しています。
音楽も詩も物語も沈黙し、
3.11以前に紡ぎ出されたものが力を失ったかのような時間を
表現者たちはどんな気持ちで過ごしているのだろう?
そんな思いも、このインタビューにとりかかる動機の一つでした。

このインタビューを始める際、
わたしの心のなかには「希望」のほかにもう一つのキーワードがありました。
「エンパシー(empathy)」です。
「河野がやろうとしていることは、こういうことなんじゃないか」と
ある友人が教えてくれました。
日本では一般的に「共感」というと「シンパシー」を使うけれど、
「エンパシー」はもっと深い共感を指すのだと。

実際にシンパシーとエンパシーをどう使い分けるのかは
人によって少しずつ異なったりもするようで、
そのへんの微妙な差異はわたしにはわかりません。
ですので、これはエンパシーと呼ばれるものへの
わたしなりの理解ですが、
「深い共感」とは、信条や考え方、物事の好みや生き方などの
目に映り耳で聞こえるあらゆる違いを超えたところにある、
人と人とのつながりを感じる気持ちのことだと思っています。

心理学者の故・河合隼雄さんが
『大人の友情』という著書に書かれている下記の文章が
感覚的にはわりと近いかもしれません。

「人間は死ぬことだけは確実である。(・・・中略・・・)
互いに死すべき者と感じるとき、
善悪とか貧富とか長短とか、この世のいろいろな評価を超えて、
束の間のこの世の生を共にしているものに対する
やさしさが生まれてくる。」

頭でこしらえた理屈でなく、日々移ろう感情でもなく、
心の深いところで自分と相手とがふっと重なって、わきあがる気持ち。
あえて言葉にするなら、存在としての共感、となるでしょうか。

ある意味、無自覚的にわきあがってくるこの共感を、
それこそ善悪や貧富やこの世のいろいろな評価を超えて
他者を思いやったり相手を理解したりという
自覚的な共感へと育てていけたなら、
その思いこそが、
これからを生きるわたしたちの、
わたしたちが生きる社会の希望となるのでは────。

東日本大震災から5年が過ぎたいま、あらためて、
わたしはそんなふうに思っています。

震災と津波、そして原発事故に端を発する
あらゆる影響、被害によって命を落とされた方々のご冥福を
心よりお祈りします。

2016年3月 河野アミ