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画面いっぱいに映し出される地球。
カメラは次第に深い宇宙空間へとズームアウトし、
いよいよ現代科学の及ばぬ領域に達したとき、
その暗い虚空は、ある少女の瞳とシンクロする───。

これはある有名なSF映画の冒頭シーン。
主人公の少女はその後、科学者となり、
「なぜ人間はここにいるのか、我々は何者か」という
問いの答えを宇宙に求め続けるわけですが、
「一家に1枚 宇宙図」の制作スタッフである
片桐 暁さんもまた、
「宇宙について考えることは、宇宙を通して
世界や自分について考えることに繋がる」と言います。
そして、必ずしも難解な数式や理論を駆使せずとも、
宇宙を思い、自分とのかかわりを考えることは
十分に可能なのだと。

文系による文系のための、宇宙と人間をめぐる旅。
想像力と好奇心を燃料に、さっそく出発するといたしましょう。


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Episode7:
宇宙の果てはどうなっている?



宇宙の果ては「最大の問い」


宇宙の果ては、一体どうなっているのだろうか?
宇宙に関心を持つ人はもちろん、特に関心のない人でも、
人生のどこかで、
そんな疑問を抱いたことがあるかもしれません。

この問いは、文字通り
「考えうる物理的に最大の問い」です。
それなのに「未だ明確な答えを得たためしがない」
という人も多いのではないでしょうか。

今回は、この問題にまつわる歴史と、
現時点での科学的解答について、
ステップ・バイ・ステップで考えてみたいと思います。

私はいま、この文章を、
半径約6,370kmの地球の地表上で書いています。
周囲は、私たちの生存に必須の空気で満ちています。
遥か上方には、その空気層の「果て」である、
大気圏の上限があります。

大気圏の厚さは定義の仕方で上下しますが、
ここでは、地表から約500kmとしましょう。
すると大気圏を含めた地球の直径は、約13,740km。
その大気圏を抜けると、その先には・・・
果てしなく続く、宇宙空間が広がっています。

おっと。こんな風に「果てしなく」という言葉を
比喩的に使ってはいけないのでした。
それに科学的に迫ることが、この文章の目的なのですから。


昔は「宇宙の果て」があった?
まずは、歴史から整理してみよう


さて、その宇宙には、太陽と月、そして5つの惑星がある。
宇宙において、人間が考えるべき主な対象は以上である。
そんな風に考えられていた時代もありました。
現在の天文学がその系譜として連なっている、
古くは古代バビロニア、
やがて古代ギリシアへと受け継がれる考え方です。

天王星と海王星は、まだ発見されていませんでした。
(それぞれの発見は18世紀と19世紀を待たなければなりません)
それ以外の様々な夜空の星々、
いわゆる恒星はもちろん認識されていましたが、
それらの恒星はすべて、「恒星天」と呼ばれる
巨大なガラスのような物体に張り付いているのではないか、
あるいは恒星天に開いている
穴のようなものなのではないか、と考えられていました。

こうした考え方はギリシアからイスラーム文化圏に伝わり、
12世紀頃には西洋世界に逆輸入されて、
今日に至る天文学の、直接のルーツとなるに至ります。

当時考えられていた宇宙の中心は、この地球です。
また、宇宙の果てである恒星天までの距離
(この球体は、土星の周回軌道の先にあると
想像されていました)は、
現在判明している太陽系のスケール感よりも、
はるかに小さくイメージされていたようです。

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ペトルス・アピアヌスの『宇宙形状誌 cosmographia』(1539年)に描かれた宇宙の構造。当時の地球中心説(天動説)に基づいており、地球を中心に月、水星、金星、太陽、火星、木星、土星の軌道、その外側に恒星天が配されている。土星以遠には、天界の構造が階層的に表現されている。



宇宙の果てには、神々がいた


では、恒星天のような球体が宇宙を包んでいるとして、
その外側はどうなっていると考えられていたのでしょうか?
その領域は、神のものでした。
神の領域については、何しろ神の領域であるわけですから、
それで事足れりとされたのでした。

当時の銅版画などに描かれた宇宙には、
地球を中心に太陽、月、5つの惑星、
それを取り囲む恒星天、その外側に
恒星天を取り囲む神や天使、天界を描いたものが見られます。
当時の人々にとって、
宇宙には確かに「果てがあった」のです。

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恒星天を動かす天使の図、14世紀末



地球や太陽の特別性は消え、
私たちは、宇宙の辺境に投げ出された


こうした宇宙の果てについての考え方を
結果的に革新することになったのは、
ニコラウス・コペルニクスであり、
アイザック・ニュートンです。

コペルニクスは、
それまでの「天動説」に代わる「地動説」によって
地球を宇宙の中心から追いやり、太陽を中心に据えました。
さらにニュートンが提唱した「万有引力の法則」は、
その太陽すらも、他の恒星と同じ存在にすぎないという結論を
引き出すことのできる革新性を備えていました。

もしも太陽が、夜空に見えるその他の星々(恒星)と
同類であるならば、当然、
太陽が宇宙の中心であると考える必然性も
なくなってしまいます。

時は、16世紀から17世紀。
場所は西洋世界。
人々と神との繋がりは未だ強固なものでしたが、
科学は、科学としての方法論と自律性を
徐々に確立しつつありました。
やがて科学は、神に代わって
世界の成り立ちや有様を説明する役割を
担っていくようになります。


宇宙の中心はどこへ行った?
そして宇宙の果ては?


かくして、これらの説に触発された天文学の進展により、
過去の私たちが宇宙と考えていたもの
(=恒星天の内部)は、
宇宙のごく一部に過ぎないことがわかってきました。

それは、天王星、海王星などの発見を経つつ、
やがて太陽系という概念に位置付け直されました。
太陽系の「果て」は、オールトの雲
そして太陽系はいま、宇宙の主役どころか、
銀河系という巨大な星々のグループの
辺境に位置付けられています。

この銀河系もまた、無数に存在する銀河系の一つに過ぎません。
(そのため「私たちの銀河系」あるいは
「天の川銀河」と呼んで、他の銀河系と区別します)
銀河系は銀河群、銀河群は銀河団と呼ばれるグループを形成し、
最大単位である銀河団は、この宇宙に、立体的な網の目状の
「大規模構造」を形成しています。

キッチンにある、
食器洗い用のスポンジを思い浮かべてみてください。
スポンジは一見、ブロック状の塊ですが、
よくよく見ると、気泡だらけでスカスカです。
スポンジの中身は、ほとんど空気なのです。
その気泡同士を支えるようにして
樹状につながっている細いウレタン樹脂の部分のみが、
厳密には、スポンジを構成する材料です。

宇宙の構造は、これと似ています。
ほとんどの部分には、
スポンジの気泡のように、何もありません。
樹状のウレタン樹脂に相当する部分の中に、
銀河団、銀河団、銀河系、太陽系、
そして私たちの地球があるのです。

こうした宇宙の仕組みが明らかになったのは、
前述のような理論の進展はもちろん、観測技術の発展が、
人類に「より遠くを見ることを可能にした」ことの結果です。
それらの帰結として、
かつてはさして問題ではなかった
大きな問いが浮上してきたのでした。

「この宇宙に、果てはあるのだろうか?」

このように歴史を辿ってくると、
宇宙の果てに関する天文学的な問いは
実は、比較的近年のものであることに気付かされます。
それは人類にとって普遍的な問いというよりも、
ここ数百年の私たちに特有の問いであったわけです。

言い方を変えれば、数千年に渡って
星空を見上げ続けてきた人類の営みが、
ここ数世紀で「科学的なものの見方」に変化し、
そこで初めて生まれた問いを
今日に至るまで私たちは問い続けている、と
いうことなのかもしれません。


次に、日本語の側面から整理してみよう


こうして生まれてきた、宇宙の果てへの問い。
その問題に取り組むにあたって私たちは、
まずは「言葉」を問題にしなければなりません。
この文章の場合は、日本語ということになります。

言葉?日本語?と
話の腰を折られる感じがしますが、
宇宙について考える時には、
実にしばしば、こうしたことが起こります。
宇宙に関しては、日常感覚の延長で
迂闊に言葉を使うことができないのです。

一例として、
「静止している」という言葉を考えてみましょう。
あなたがベッドに寝転がって
スマホでこの文章を読んでいる場合、
一般的には「静止している」と言って差し支えないでしょう。

ところが、ぐーっとカメラを引いて宇宙空間から見れば、
地球は自転しています。
ですから、日本の緯度を考慮すると、
ざっくりと時速約1,400kmというスピードで
あなたは移動し続けていることになります。

さらにカメラを引けば、地球は太陽の周りを公転しており、
その公転速度は、時速約10万kmです。
太陽から見たあなたは、
「静止している」とはほど遠い状態になってしまいました。

では、思い切りカメラを引けば、
宇宙のどこかに「静止している」点はあるのだろうか?
・・・ということが気になってきます。
ところが現代宇宙論においては、
宇宙には、どこまで行っても
静止している点はないと考えられています。
したがって宇宙には(私たちが地球上で使う意味での)
「中心」もない、と考えられています。

脱線が長くなってしまったのですが、
普段何気なく使っている当たり前の言葉たちは
「地球上で使われること」を前提としており、
不用意にそのまま宇宙に持って行くと
想定外の事態が起こることが多いのです。
それもこれもおそらくは、言葉というものが、
人類が宇宙に進出するはるか以前に
完成されたものだからでしょう。

さて、話を戻して。
私たちは普段、「果て」という言葉を用いる時、
ある種の境界のようなものを
頭の中にイメージしていると考えられます。
正確なところを、辞書で確かめてみましょう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
はて【果て】
〔動詞「はてる」の連用形から〕
①終わること。尽きること。「-のない議論」「-のない欲望」
②行きつく最後の所。一番はし。
 「空の-」「世界の-まで探し求める」
③物事の結末。最後。末路。
④喪の終わり。四十九日にも一周忌にもいう。
「御-にも、誦経などとりわきせさせ給ふ/源氏 横笛」

(大辞林 第三版より、一部改変)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

私たちのイメージと、おおよそ、ズレはないようです。
この辞書的意味に照らし合わせながら考えると、
「宇宙の果て」とは、私たちの知る宇宙が
終わる場所、尽きる場所です。
すると当然、その「果て」の外側は
一体どうなっているのだろうか?
そこはもはや、私たちの知る宇宙ではないのではないか?
という疑問が湧いてきます。
しかし・・・!?


科学は、すべてを知っているとは限らない


この問い方には、実は重大な問題点があります。
それは「宇宙に果てがあるのかないのかに関する答えを、
科学は知っている」
ということを、暗黙の前提にしていることです。

ところが2016年7月現在、
科学は、宇宙に果てがあるのかどうかを、
観測的事実としては知りません。

さらに言えば、宇宙に果てがあるかどうかを確かめることは
今後とも極めて難しいと想像される、
十分な理由があります。

「科学が発展すればいつかは・・・」といった
問題ではありません。
どれだけ科学が発展しようとも、
この宇宙の仕組みがいまの仕組みである以上、
原理的に確かめることができないのではないか?と
考えられているのです。


科学が答えられる「果て」とは


現在、科学が答えることができるのは、
「私たちは、この宇宙のどこまでなら
観測によって関われるのか」という意味での「果て」です。

厳密には科学的正確性を欠くかもしれませんが、
わかりやすさのために「水平線」で喩えてみましょう。

船上から海の果てを見ようとすれば、
視線の先には「水平線」が見えることでしょう。
しかしこれは
「たまたまそこまで見える」ということに過ぎません。
海はその向こうにも続いているに違いないということは、
経験上、おそらく間違いありません。

この場合の水平線は、
あくまで「どこまで見えるか」という意味での果てです。
(厳密に言うなら「果て」というより「範囲」でしょう)
そして「では、海はどこまでいったら途切れるのか、
あるいは途切れないのか」という疑問は、
水平線を見ている限り、解決できません。

宇宙の果てにも、
この水平線と似たような問題が起こります。
詳細はまたの機会に譲りますが、
宇宙が膨張していることによって、
私たちが観ることのできる宇宙の範囲には
制約が生まれています。

それはあくまで「見える/見えないの境目」ですから、
その向こう側にも、こちら側と同じような宇宙が
拡がっているに違いありません。

しかし、見えなくなった先の
宇宙が、その状態でどこまで広がっているのか?
私たちが問題にしているような意味での
宇宙の果てはあるのか?ないのか?
あるとしたら、果ての向こう側はどうなっているのか?
これらの疑問には、
「見えない以上、答えようがない」のです。

そして、「見えない」理由が
私たちの観測技術の問題ではなく、
宇宙が膨張していること、
すなわち、宇宙の仕組みそのものと
直接つながっているところに、
地球上の常識が通じない「宇宙論」の面白さがあります。

今回は、現代の科学では(そしておそらく、未来の科学でも)
宇宙の果ては直接観測できない、ということを紹介しました。
ではなぜ、宇宙が膨張していると、
宇宙の果てが観測できないことになるのでしょうか?
この理屈の部分もなかなか面白いので、
いずれ機会を見て、また取り上げてみたいと思います。

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